ひより

□何もなかったのかもしれない
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さっと風が木の葉を舞わせたかと思ったら、私の髪の毛まで撫ぜた。カールした毛先が風を受け流して少し浮いた。風は私の頬も同じように撫ぜる。瞬間、冷たさに肩が震えた。

「家康様」

その風と共に、一人。
声を頼りに振り返ると、一昨日ぶりに見た顔があった。それは私に向かって微笑んでいた。私も笑い、彼に駆け寄った。

「おかえり、半蔵」

無事でよかった。ほんとによかった。呟いて半蔵を見つめ、くすりと噴き出し、また呟く。本当に、よかったよ。
半蔵はにこりと笑って、私の肩を抱く。ちょっときついくらいがよくて、息苦しさすらも私にとっては問題にはならなかった。
半蔵、ともう一度呟くと、言葉がない代わりに肩に髪がかかった。半蔵の吐息がすぐ近くにあった。半蔵が生きている。そういう感覚が私を満たす。単純に心地よくて、それでいて、ちょっと胸が痛い。どく、どく、と。気持ちが溢れて決壊しそうなほどこみ上げてくる。それを、ぐ、とこらえた。城主的にはその方がいいのだと、思う。多分醜態を晒すのは彼の主として相応しくないし、私は今、主として彼を迎えている。誰が見てもそうだ、と言えるような情景ではないけれど、それでも私はそのつもりでいる。

「……家康、様」

「……何だ?半ぞ」

耳にしみるように声が聞こえた。刹那、私と私を包んでいた半蔵は地面へ倒れた。半蔵の腕があったから別に痛くない。けれど私はしばらく半蔵に守られているだけだということに気付けなかった。夜襲だと気付くのに、いったいどれほどの時間が経ったのだろう。そんな中で半蔵が動かないのは何故だろう。半蔵の状態はいまいち掴めないが、おそらく生きてる。まだ心地よさが体から逃げていないからだ。体を強く掴む手も吐息も、健在だ。

「……家康様」

「な……に?」

「ここで伏せていてください」

柔らかい命令が聞こえてきたと思ったら重さがなくなった。同時に冷たい風がぴゅうと私の頬を掠める。転がりうつぶせになると、辺りの木の葉が私に襲い掛かる。それを厭う暇などなく、私は厚い枯葉の層に顔を埋めた。目を瞑って耐えもした。
そこからどれだけの時間が経ったのかわからないが、大分伏していたような気がする。最初どおりほぼ無音のような状態。そろそろ半蔵が帰ってくるだろうかと顔を上げてみたけれど誰もいなかった。

敵もいなければ半蔵もいない。油断は禁物だと心に命じてみるけれど、それでも何もなさすぎて警戒は思わず緩んでしまう。
一応周りに気を配ってだけれど、立ち上がった。恐ろしいほど静かで、全て白昼夢ではと疑ってみたけれど。

(……どうやら、全て本当らしい。)

夢の中の半蔵が抱きしめてくれた位置に落ちている銀杏の葉数枚が、真新しい血で赤色に染まっていた。

「……せめて、」

無事でいて、と呟いた願いは冷たい風に乗ってどっかいった。





何もなかったのかもしれない。
けれど確かに、そこには残像が残っていた
(果たして次はいつ逢えるのでしょう。)



2009.11.23


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