ひより

□人は死ぬために生まれてきた
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自らの首に縄をかけるベルさんを目撃してからは、いよいよ彼を監視し続けなくてはいけないのだなと悟った。それから僕は、研究所に通うのではなく、ベルさんと一緒に住み込むことに決めた。研究と食事と睡眠しか生活にない、一人暮らしのベルさんには持て余しそうな広さの家に、今日の僕は大荷物で来ていた。
何だか複雑そうな顔をしていたけれど、一週間ほど前にベルさんの承諾も得た。僕に毎度助けられるのはなんだかなあ思っているけれど、僕が嫌いなわけではないので家にいることは許可した。といったところだろうか。最近は何を考えてるかわからない彼のことを推察できるようになった。それだけでも大きな進歩だと思う。
ベルさんに案内された部屋は、ひどくさっぱりしていた。窓が一個あるだけで、家具もカーテンも、その他の装飾品も何もない。最近掃除をした痕跡があるので、どうやら事前に(おそらくここ2、3日前に)僕をここに置く算段をしていたのだろう。掃除くらいは自分でやろうと思っていたし、元々家事が得意ではないベルさんがここまでしてくれたことに僕はひどく驚いた。顔に出すとベルさんは少し不満顔で、私だってこのくらい出来るよ。と呟いた。

「でもワトソン君、どうして急にここに住まわせてくれなんて」

不満そうな目が少し弱まって、僕を見つめなおしてくる。
いつか聞かれるだろう質問に、僕は用意していた答えを返した。

「ベルさん、いつかほんとに死んでしまいそうで怖いですから」

聞くと、ベルさんは居候の申し出を許可した時と同じような顔をしてみせた。眉を微妙に寄せて、口元に人差し指を添えて俯く。その顔を微笑ましいとすら思ってしまう自分はおそらく末期なのだろう。笑ってベルさんの黒髪をそっと撫で付けた。

「ちょ、ワトソン君」

「はい」

やめて、と口ごもるベルさんを余所に髪を撫で続ける。嫌だったらベルさん自らが振りほどけばいいのだ。まあ、振りほどけない気持ちもわかるけれど。
複雑そうな顔がだんだんと気恥ずかしそうに頬を染めていく様は見ていて面白かった。

「……死にたいんだってば」

不意に呟かれた言葉に思わず面食らった。今まで動かしていた手が止まった。今更驚く僕を、ベルさんはどこか寂しそうに見つめた。

「私はね、ワトソン君。研究以外に毎日を過ごす理由がないんだ。それも、もうそろそろ発表して完了する。いや、もう発表はワトソン君がやってくれればなと思ってる。だからもう、いいかなと思ってるんだよ」

死んでもね。
そう寂しそうに笑い、僕から距離をとるベルさんの腕を咄嗟に掴んだ。ベルさんは別に驚かないで、またそのまま顔を俯かせる。
力の篭もる腕に更に力を込めて、強く拳を作った。一つ罵倒して、張り倒すことが出来たらどれだけ楽か。それで更生してくれるなら、僕は今までに一度くらいベルさんの痩せた頬をはたいていたかもしれない。ああ、でもおそらくそれも効かない。
ゆっくりと、その拳を開いて、そのままベルさんの肩に置いた。

「ベルさん、駄目ですよ。まだ、死んじゃいけない」

「どうして?」

「だって、まだあなたは何かできる」

「この研究以外で、何やっても失敗ばっかりだったこの私に?」

「できますよ」

自嘲気味に笑いかけるベルさんの顔を見たくなくてうな垂れた。そうしないと感情に任せて彼を打ってしまう気がするから。

「ワトソン君。嘘はやめよう」

ベルさんがひっそりと笑った気がした。

「私は君が思ってるほど有能ではないんだよ。研究も君がいなきゃできなかった。そんなことわかってるんだ。君には感謝してる。一度でも成功できてよかったと思ってる。ありがとう」

だからもう満足なんだと僕の上から声がする。思わず、無欲で謙虚な彼の肩を強く握った。

「生きることに疲れたわけじゃないけど、いつか人は死ぬんだからさ。……一足先に休んでもいいだろう?」

少し間をおいてベルさんは続けた。痛みからか、話し始めに少しひゅ、と息の音が混じった。
その言い分はひどく身勝手で高尚な考えだと思った。もっと汚く生きてもいいと、伝えたいのだけれど声が出ない。罵倒しないように硬く歯を食いしばったからだ。これほどもどかしいと思ったこともない。辛かった。

「……でもなあ」

ベルさんが今までの主張を打ち消す可能性を含んだ言葉を零した。期待に顔を上げた。ベルさんの目は僕を捉えていた。

「君がここにいてくれる間は邪魔しそうだから、まだ死ねないかもね」

困ったなあ、とベルさんは笑う。当分死なないという意味であることは明白だった。安堵して、強張っていた体が弛緩した。僕はゆるゆると崩れ落ちて、綺麗なフローリングにぺたりとお尻をつけた。それに続いてベルさんもしゃがみ込んだ。

「……びっくりさせないでくださいよ」

「そんなつもりはなかったんだけど」

「ベルさんが言うと、全部本気に聞こえるんですから」

「本気だよ。全部」

「……もういいです」

「え、死んでもいいの?」

「いいえ」

「なんだ」

ベルさんは目を細めて、ちょうど先ほど僕がそうしたように僕の頭を撫で付けた。
なるほど、これは恥ずかしい。





人は死ぬために生まれてきたなんて、ただのお伽噺にすぎないのに
(それに生かされてる僕らのなんと滑稽なことか)





どっちも手遅れ
2009.12.03


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