ひより

□願わくば次に来る世界で
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水曜日の夕方には答えが出ていなければいけない。
思えば思うほど、時間が経てば経つほど、頭は冷静になっていき、あの男を分析した。
が、納得のいく解析結果は得られなかった。
何者なのかは見当もつかない。時間を確認したところ二時間はあそこにいたらしい。
二時間たっぷり僕への質問だけであの場を成り立たせた男の技量というものが分かる。見ず知らずの人間相手に二時間話しかけ続けることは、僕には難しい。
僕の話しかしていないから、話から彼の職や身分を察するのは難しい。
最後のやりとりから、宗教の勧誘かとも一瞬疑っては見たが、どう考えても彼の本題はそこじゃない気がする。この前の男は、僕と話をすることに重きを置いていたようだし、天国云々という話には意味などないような気さえする。
……いや、意味はある。考えもなしにあんな一見真面目なことを言うような人ではない、と思う。
次に会うときの話のネタにするためである以上に、彼は意味を含んでいたような気がしてならない。
だとしたらその意味とは何かと考えてみても、僕はそこから先の可能性には至れない。

その現実から逃げるために、あの日に貰っていた宿題も考えてみるものの、明確な自分の答えは出せない。どの方向に理論を展開していっても、どこかで聞いたような、ありふれたようなそれになってしまう。いかに自分の頭が固いか分かってしまい、考えたら考えただけ、自分に自信が持てなくなって頭を抱えた。
ここまで情報がなく、おぼろげな彼の全体像。
……ひょっとしたら僕は、僕自身の妄想を、知らず知らずの内に真に受けてしまっているのかもしれない。しかし自分がそんな人間ではないことは自分が一番知っている。
それに、そんなことは水曜日にファミレスに行けば証明されるのだ。疑ってもしかたがない。
きっと僕には、待つことしか出来ないのだ。

講義の内容は右から左へすり抜けて、板書は写されているものの理解が出来ない。何かをしながら何かをやるということが非常に苦手な僕のノートは、いつになく雑に作られていた。複数の項の因果関係が不明なノートなど試験の時に使えもしない。残念だがこのページは一から作り直しだ。
ここ最近は何もかもが半端で、そして自分はそれが許せない性分だ。
中途半端の原因は自業自得だとしか言い表せないのだが、もっと根本的なものはあの男にあるような気がしてならない。しかしそうやって人の所為にするのも嫌なのでまた自己嫌悪。
僕は利き手に持つ、蓋の被ったマーカーをこめかみに押し付けた。





足が止まった。目的地だからだ。
はあ、と息をついて空を仰いだ。まだ空は明るい。彼がいるのかと心配になったが、寒さと焦れる心に後押しされて扉の取っ手を掴んだ。

数日前にも来たファミレス。いつも何の気なしに通り過ぎていたこの店が、今の自分にとって大切な場所になるとは思いもしなかった。まあ、あの人との待ち合わせ場所という意外に何もないのだが。
入ったらほわりと温かい空調と暖色でまとめられた色調の店内が僕を迎え入れた。
いらっしゃいませという言葉を聞いて、僕はそこを振り返った。髪の色が僕ほどではないが明るいウエイトレスが、それなりの笑顔で立っていた。

「お一人様ですか?」
「待ち合わせしてるんですけどいますか?……全身真っ黒の、痩せた男の人なんですけど」
「ああ、……あちらのお客様でしょうか」

彼女の手の先を追うと前回僕らが座っていたボックス席。ソファー側に、確かに真っ黒の痩躯が見える。これ以上の証明はなかった。
同時に男が僕だけに見える類のものではないと分かって安堵し、ウエイトレスに会釈した。

「やあ」
「どうも」

お互い短く言葉を交わす。
僕に気付いた男は笑顔で手を振り、それを僕は会釈で返す。二人とも、数日前と同じ席に着いていた。
男は机の上に置かれたドリンクバー専用のグラスを持ち上げた。グラスを傾けて一口飲むと、一拍置いて「来てくれたんだね、嬉しいなあ」と社交辞令のような台詞を吐いた。

「こちらがわがままを言って起きたことですからね。あなたが嬉しがることじゃないですよ」
「まあ、それでもだよ」

へへ、と口を横に開いて男は笑い声を漏らした。つられる様にこちらも微笑んでしまう。上がる端に気付いて指で隠した。

「さて。今日は何の話をしようか」
「この前の続きじゃなかったんですか?……死後の世界がどうっていう」

男が言うとどこか真面目な話に聞こえたのに、自分が言うとなんだか胡散臭く感じる。男が言うなら、宗教っぽさを感じても聞く気が起きるのに。
男は僕の言葉に、そうだったねえ、と自嘲気味に笑いながら呟いた。

「この年になると忘れっぽくてね、困ったもんだ」
「……『この年』って、幾つなんです?」

詮索を入れてみると、今度は少し、寂しそうに。
うっすら笑ってまたグラスに口をつけた。一つ喉を鳴らしてから、男は僕をちらりと見た。

「ああ、そうだ。ドリンクバー、君の分も取っといたよ。行ってくると良い」
「……どうも」

話を逸らされたのが気に食わなくて、半ば乱暴に椅子を鳴らした。





男は二杯目のホットコーヒー。
僕は一杯目の烏龍茶。
どちらも温かい飲み物専用の白いカップの中で湯気をこしらえていた。明るい店内でもよく見えるそれは、まだ飲み干せるレベルではないと教えてくれていた。
それを男は息で冷まして啜る。黒いシルエットに陶器の白が思いのほか似合い、思わずどきりとした。

「さて。君はどう思っていたんだっけ」
「……幼い頃に聞いた話を、そのまま言っただけだけですが、」

死者達は、その生前の行いに準じて天国と地獄に振り分けられる。
ぽつりと零したそれは、一番最初に男に伝えた死後の世界観。
男は満足そうに微笑み、僕を見据える。

「そうそう、そうだった。それね、おおむね正解」
「おおむね?」
「そう」

男はカップの縁を人差し指でなぞった。比較する対象があると指の白さが際立つ。生き物の色としてどうなのだと疑ってしまうほど白いその指に、何か言い知れぬものを感じた。

「君の答えに付け加えて更に言うとね、それはどこにもないんだ」

指の先を、縁を弾くように動かして上へと向けた。おそらく、天を指していた。

「人は天国は雲の上に、地獄は地面の下に。って考える」

男は指先を緩やかに下に向けた。

「それ、違うんだよねえ」

こん、と机を鳴らした。

「じゃあ、どこにあるんですか?」

一区切りついたと思って話しかけた。
純粋な疑問だったのだが、僕の言葉に男は苦笑いした。

「言ったでしょ。どこにもないんだ」
「どこにもないなんて嘘ですよ」
「どうして?」

男は苦笑いをおさめた変わりに、ほんの僅かな微笑を浮かべた。
何だか試されているようにも感じて、対抗のつもりで目を見据えてやる。
ふと気付いたが、男の目は真剣だった。
思えば彼の笑みはいつでも中身が伴っていない気がした。
ああ、これの所為だったのか。と心の端にて納得した。

「だって、それじゃあ答えと矛盾します」
「どうしてそう思うの?」

……真剣な目に怯むんじゃない。
自分に言い聞かせて、烏龍茶を口に含んだ。

「天国と地獄は『ある』って言ったじゃないですか」

烏龍茶を飲み干し、一拍置いてそう続けた。

「うん」

男の肯定。

「でも、『どこにもない』って」
「うん」
「それって矛盾してますよね」
「そうかなあ」

男は笑みを浮かべていた。
しかし僕の言葉をやんわりと否定する。

「『ある』けど『ない』って、矛盾かなあ」
「矛盾ですよ」
「そう?うーん……じゃあ、『ない』けど『ある』は、矛盾?」
「はあ?」

男は、口を開ける僕を見る目を細めた。
言葉を逆にしただけで、その事象が同義にならないことなど、数学の世界にしか存在しないと思っていた。
そんな僕の動揺を男は見透かしたように、君は何か勘違いしているんじゃないかな、と続けた。

「例を挙げよう。例えば、あそこに一組の男女がいるね」

男の指先は右に傾いた。
目で追うと、僕よりも若いであろう男女がいた。

「彼らが何か?」
「あの子達がさ、恋人だとしようか。ああ、これは仮の話だから、実際に二人がそういう仲かどうかは置いておいてね」
「それで、何だというんですか」

男女を捉えていた指が規則的に揺れる。

「恋人であるという前提で二人を捉えた場合。彼らが何も行動を起こさない状態で、果たして彼らの愛情は目で見えるだろうか」
「見えるわけないですよ。情は直接目で見えたりしません」
「そうだね。それが『ない』けど『ある』だ」
「なるほど」

僕は鼻を鳴らして一呼吸置いた。

「つまり、逆もまた然りということですか?」
「そういうこと」

彼の提唱するそれは、要するに物理的か概念的かという話らしい。
一例の場合は「目に見えはし『ない』けど、確かに『ある』」もので、それは逆でも同じことであるのだ。
天国も地獄も、『ある』けど『ない』。(『ある』という認識に関しては千差万別なので差異はあるのだけれど、その多大な認識は今は捨て置く。)
男は理解が早いねと笑った。
例え話が終わってしまった時点でもう遅いと思うのだが、男にとって誉め言葉は皮肉でも正直な感想でもなく、ただ話の接続詞でしかないのだろう。どうも、そんな気がする。

「興味深いです」

それにしても、僕はここまでのことを聞かされ、噛み砕いてもらってやっと理解が出来たというのに、目の前の男は独自にそれを導き出したと思うと、自分との間に生まれる能力的格差についていけなくなる。
僕は未だに揺れ続けている男の指を眺めながら、残り少ない、湯気の消えた烏龍茶を飲み干した。






彼と一緒にいると、どうしてだか勉強になると感じる。
自分の専門とは違う話をしているのに、今まで考えた事もないのに、僕は心の隅でわくわくとしている。
どういうことなのか分かりかねるが、ひょっとしたら大学の講義よりも興味深かった。今度講義で民俗や宗教学でも取ってみようかと迷うほどだ。
宗教的な語らいはまだ続いている。
死後の世界。天国とは。地獄とは。ではその中間とは何か。
それらの問いに、男はすべて独特の自論を展開した。世論とだいたい連れ添っているものの、妙にファンタジーであり、しかし生臭い説明は、身元を明らかにしない男が嬉々として話す言葉としては信憑性が感じられた。

「中間は中間なんだよ。でも、これもあるけどない」
「あくまで概念的なものだということですか」
「うーん。それもどうかな。……ちょっと。ちょっとだけ違う」

男は四杯目の飲み物を啜りながらさも楽しそうに答えた。
その様があんまり嬉しそうで堪らないものだから、少しだけ彼のことをいじってみたくなった。
僕も三杯目の飲み物を一口飲んでから、目を細めて聞いてやる。

「あんた、楽しそうですね」
「うん。楽しい」
「そうでしょうね。弁舌も乗ってきて、その目で見てきたかのような語り口だ」
「そうかな。そんなつもりないんだけど」

少し、間があった。
男の方を見やると、一見平然としている。
しかし眉毛は正直だった。さっきより、若干寄っていた。
あれ、と。甘い飲み物を口の中で転がしながら気付く。
そういえば、月曜もこんな表情を見せたような。どこでだったか

「オレはね、ただ自分の考えを君にひけらかせるのが嬉しいんだ。言い方は悪いけれど。……自分の考えに自信を持っているからね」
「……なるほど」
「そんなことよりさ、君はさっき、天国を良いところで、地獄を悪いところだと言ったね」

男は固めていた寄せていた眉毛を緩めて僕を見据えた。

「ああ、はい。言いました」
「果たしてそうだろうかと思うんだよねえ」

また自論が始まる。
僕は嬉々として話を再開する男を見て、仕方ないと溜息を一つついた。
その口が緩み気味でいたことは、僕が一番よく知っている。


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