ひより

□願わくば次に来る世界で
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「……そろそろ出ようか」

その沈黙は男の新たな質問で潰えるのだろうと考えていた矢先だった。ふと、男から解放の言葉が聞こえた。
僕はえ、と思わず口を滑らせた。
男はその言葉にコートに袖を通すのを止めた。

「え、って?」
「あ、いえ……」

ここまで意外なほど何もなくて、想定していたものとは全く違っていた。
本当に話し相手が欲しかっただけなのかと、当初危険なイメージを抱いていたことを申し訳なくすら思う。
そしてそれ以上に膨らんだ気持ちは、物足りなさだった。

「……名前、聞いても良いですか?」
「え」

男は真っ黒で真っ白い目玉を瞠った。名を聞いてしまったことを自分でも驚いている。もう会わないだろうに。
いや、それを嫌がっているから名前を尋ねたのかもしれない。未だに身元不明の男であることに変わりはないが、この数時間が楽しいものだと認識するのにそれは関係ない。単純なことだ、楽しかった。またこんな機会があれば良い。また、会いたい。
たったそれだけの話のはずだ。そしてその簡単なことを実行するだけでも緊張してしまうのは何故だろう。声をかけることとはこんなにも心臓が活発になることだっただろうか。
ちらりと男を見ると、僕の突飛な行動に目を白黒させていた。
大っぴらに慌てている様子は見て取れないが、一点を見つめて停止しているのは、おそらく頭の中で思考回路が短絡事故でも起こしているからだ。今、大急ぎで修復をしているのだろう。テンパっていると表現するのは多分正しくない。きっと事故を起こしても性能の良い頭で、必死に今までの僕を振り返っては今の言葉と照らし合わせているはずだ。
大人を慌てさせるのは面白いな、と彼を見て少し落ち着きを取り戻した僕は笑った。

「……教えられないや」

やっと見つけた回答だったのだろう。大分間を置いてから男は答えた。

「僕のことはあんなに聞いてきたのに?」
「ごめんね」
「……そうですか」

視線を落として僕は呟く。
目の端に映る男は、ただ立ち尽くしている。お互いにとって居心地の悪い雰囲気だった。どちらかが動かなくてはきっとこの空気はいつまでも続き、淀み続けるのだろう。
けれど自然な立ち上がり方を思いつくことが出来ないまま、僕は椅子に座り続けた。

「……じゃあさ、こうしようか」

男は座りなおして、静かに話し始めた。耳を傾けて、聴く。

「水曜日の夕方に、ここで待ち合わせ」

とん、と細長い指が机を叩く。この店を指しているのか、それともこの席を表しているのかは分かりかねたが、とにかく言葉通り「ここに来い」ということだろう。

「オレは絶対にいるから。あとは君次第だ」

きっと今君、冷静じゃないんだよ。
男はそう笑った。一日二日頭を冷やして、冷静になって、それでもオレと話をしたければここにおいで。という意味なのだろう。
猶予がないと焦った僕に、男は与えてくれたのだ。大人というものは何でも上手にこなす人種だ。僕よりも一枚上手な彼に心の内で舌を巻いた。

「分かりました。では水曜日に」
「うん、君が来たくなったらおいで」
「……せめて僕の名前だけでも教えてはいけませんか?」
「やめよう、それはフェアじゃないよ」
「今までの質問攻めでもう既にフェアではないですよ」
「そりゃそうか。でも聞かないでおくよ」

男が伝票を取りながら言うと、二人一斉に立ち上がった。同じタイミングで相手の目線が動いたことに顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。
袖を通しきったコートの裾を翻しながらレジへ向かう男の後ろを追った。
初めてしっかりと確認した後姿だった。横髪を後ろで綺麗に括ってある。濡れたような黒色をした髪から覗くうなじは他と比べて一際白く、髪の毛やコートの襟元もあって、一番対比の強いと感じる部分だった。
そして不意に、そのうなじに変な衝動を感じて。

「え、」

頭の中に何かが過ぎる。

「……どうしたの?」

一瞬の硬直は男の声で解かれた。
我に返ると、男の墨みたいな色をした瞳が僕を捉えていた。

「あ、いえ……。何でもないです」
「そう?なら良いけど」

軽く笑い、くるりと進行方向へ目をやる。
レジの前には3人ほどの列が出来ていた。その後ろに大人しく並ぶ男の横についた。

「……ああ、ねえ」

ふと、横で呼びかける男。僕は列の先頭の女の人が抱える赤ん坊がぐずる様が気にかかって耳だけ男に傾注していた。

「はい?」
「人は死んだらどこへ行くと思う?」

突飛すぎて一瞬何と聞かれているのかわからなかった。しかしすぐに理解した。今までとは明らかに毛色の違う質問にぎょっとして男の方を振り向いた。
男もまた、先ほどの僕と同じように赤ん坊が気になる様子だった。その表情からはそれ以上のことは読み取れない。

「……何て答えたら良いんですか?」
「君が思うように答えてくれればそれで」

特に、何も思っていない。それが正直な答えだ。考えた事もないような質問に、僕は逡巡した。

「………………」
「わかんない?」

男は押し黙る僕を見て笑っていた。少し恥ずかしくなって、俯いた。
そりゃそうだよねえ、と男は大した感情を感じられない声色で続けた。
何となく勘に触ったので、無理にでもひねり出そうと試みた。
結果、小さい頃に聞いた話しか思い浮かばず、それを正直に口にする。

「……良いことをしたら天国にいくんです」
「悪いことをしたら?」
「……地獄にいきます」
「大正解だよ」

ぽん、と肩を叩かれた。どこか嘲られた気がしなくもないが、正解だと言われたならそれでいいことにした。

「どっちにしても、また何かに生まれ変わるんだ。良いシステムだとは思わない?」
「そうですね」
「……君も、そうして生まれてきたんだねえ」

話がどんどんわからなくなっていく。一連の会話の中から彼の真意を拾おうと努力をしてみたものの、切れ端すらも見つからない。
難しいことを聞いて僕の反応を楽しみたかっただけなのか。
それとも何か、もっと深い意図があるのか。
その間にも支払を済ませた男は僕を連れて外へと繋がる扉を引いた。ファミレスの中と外の中継地点ともいえる場所で、男は曖昧に笑った。

「困らせたいわけじゃないんだ。ごめんね、変なこと聞いて」
「……いえ。初めて考えたことだったので、まともな答えが出せなくてすみません」
「本当に、君は真面目だねえ」

ふ、と笑って男は僕の肩をまた叩く。
最後の質問の印象も合わさって、変な人だなあ、と改めて思った。

「水曜日会う気になったら、もうちょっと詳しく話したいな」
「ええ。考えておきます」
「ありがとう」

扉を押して、僕を外へと促す。その通りに外に出たら、外は入ったときよりもずっと寒くなっていた。冷たさが身を掠め、露になっている皮膚を啄んだ。

「それじゃあね」

男は扉からでると、さっさと大通りの人ごみに消えた。僕の帰り道とは真反対だったし、追うこともなかった。
一人ぽつんと寒さの中に立ちすくむ。ふと見上げた空は時間相応に暗いが、男のコートや黒髪の影響で明るくすら見えた。







願わくば次にくる世界で
君が笑えるように、

前編
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書き出したら意外と長くなりそうなのでいくつかに分けます。


2009.12.25

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