ひより

□願わくば次に来る世界で
2ページ/2ページ


自身の主張を語りつくしてから、僕は受動的な位置に立っていた。
男の講義をノートも取らずに頭に入れる。それはつまり、男の自己満足が飽和するのを待つ状況。
まあ、僕も面白いのでそれを待つというかこれを受け入れているというか。
とにかく男が一方的に語りを続けて、僕が適当なところで相槌を入れる。
そしてそれについて男がまた少し論点を変えた話を展開する。

僕らが落ち合って何時間経ったのかは知らないが、ガラス張りの向こうを見やると空は藍色だった。男はそれを知ってか知らずか、舌を回し続けて僕に話して聞かせてくれる。
終わりの見えない講義に、今日の帰りが遅くなりそうなことを覚悟した。
一人暮らしの僕には、家に連絡なんて必要ない。
このレストランは丸一日営業中だし、明日の大学の講義が始まるのも遅い。別にここで一晩潰しても僕とお店の側から見れば何ら問題は無いのだ。
男はどうだか知らないが大人であるのだし、おそらく彼も問題ではないのだろう。家に誰かを待たせているというのなら話は別だが。
今日という日は男にくれてやろう。
そう思っていた矢先だった。

「……ああ、もうこんな暗いんだ」

話の切れ目に一息つこうとしたのか、カップに手を伸ばした男はふと窓を見た。彼の目には僕のそれと同じ光景が映っていることだろう。

「そうですね」
「大丈夫?」
「はい」
「ご両親の了承とか取ったの?」
「僕一人暮らしですから大丈夫ですよ」

ああ、そうなんだ。
男は呟いた。その目は一瞬にして伏せられた。手中のカップの中身をそのまま啜る。
僕も自分のグラスの中を口に含んだ。口当たりがよく、そのまま喉へ押しやった。

「あなたの方は」
「ん?」
「大丈夫なんですか?」
「ああ、」

生返事を返す男。
あれだけ滑らかに動いていた口が曖昧に動くのは見ていて少し面白かった。
しかし面白くないのでもう少し言及してみる。

「良いんですか?家に奥さんや子どもを待たせてるとか」
「大丈夫」
「どういう意味で?」
「妻子持ちなんかじゃないから大丈夫」
「そうでしたか」

耳へと伝わる男の言葉が少し意外だった。
男の見た目から感じる年齢はたいして若くもない。どれだけ若く見積もっても二十代の前半を切ることはない。
無難に見て、三十の前半。あるいは中ごろ。
更に言うならばやや不健康そうな肌の色が隠しているが、容姿は決して悪くない。
僕を何度となく見つめていた切れ長の釣り目や、鼻筋。それから薄い唇などを見ると、むしろ良い方であると思う。
悪くはない顔立ちをした三十代の男というものは、大体の割合で妻子を持っているものだと思っていた。
受け答えにまた間があったので、それを気にしているのかと瞬時に質問したことを後悔した。

「まあ、欲しいわけでもないし」
「……」
「あ、気にしないで良いよ。別に良いんだから」

気遣いを考えていたのだが、どうやらそれは杞憂だったようだった。
男の表情は硬いわけでもなく、ただ穏やか。本当に気にしてはいない様子だったので僕はいつの間にか入っていた肩の力を抜いた。

「それは良かった」

思えば、これが初めて聞く男の情報だった。
いくつなのかも、何をしているのかも答えてはくれなかったのだが、彼が独身であることだけは分かった。
それを知ってどうするのかは見当もつかないが、何だか一つでも彼の事が知れて親近感が強まった。
それは安堵にも似た感覚で、僕の心はほんの少し軽くなる。
気を使いすぎてきたのかもしれない。

「だったら、今日はここで夜通し弁論が出来ますね。もちろんあなたのお仕事に支障が出ない程度ですけど」
「いや、大丈夫だよ。……もっと話そうか」
「お酒なんかがあるとあなたの舌も回ってくるんじゃないですか?」

それはいいね、と乗ってくるかなと思った。
長時間、男同士で顔をつき合わせているとどうにも酒が欲しくなる。それは僕だけではないはずだ。
もう少し踏み込んだ話も出来そうだという下心もあったかもしれない。

「酒かあ……」

しかし男は躊躇する。人差し指を横に倒して自身の唇に添えて、うむ、と唸る。
僕からお酒の勧めが出るとは思っていなかったようで、考えあぐねている様にも見えた。

「いいじゃないですか、……あ、車かなんかで来てたりします?」
「いや、大丈夫だけど」
「じゃあ飲めないとか」
「ううん」
「じゃあ良いじゃないですか。明日のお仕事に差し障らない程度にしたらいいんです」

僕はすっかりこの男に心を開いてしまっている。気分は旧友に会っているようだった。
だから砕けた口説き文句で男を酒に誘うことも可能だった。

「うーん……」
「良いじゃないですか。どうです?なんでしたら僕が奢りますから」
「君に奢らせるなんて出来ないよ」
「いやあ、でも僕が言い出したんで」

メニューを手に取り、ドリンクを眺めた。色とりどりのグラスの写真。
メニューを見つめる僕に男は話しかけた。

「酒好きなの?」
「お酒が好きって言うか、人とお酒を飲むのが好きなんです」
「どうして?」
「腹を割ってるって感じするでしょう?」
「なるほど」

顔を見たわけではないが、浅はかな答えに苦笑しているような気がする。
僕はそれでも良いかと酒のページを眺めていると、ふと一つのブロックに目が留まった。

「……ああ、焼酎なんてあるんですね。いかがです?」
「焼酎?」
「何かたくさん種類があるんですけど、どれがいいですかね」
「君が選ぶと良いよ」

興味がないわけではないようだが、特に種類に拘りはない様だ。男は曖昧に笑って僕を見た。

「そうですか?それじゃあ……」

一つ、二つ、焼酎の欄を流し見た後に目に止まったそれを見る。
じゃあ、と呟いて顔を上げ、男を見やった。

「『閻魔』なんてどうです?」
「え」

閻魔。
今している話にぴったりではないか、と思いついて選んだ。
これに便乗して男からも賛同を貰えるものだと思っていた。
けれど、男の反応は鈍い。少なくとも僕の考えていたものではなかった。
男は苦笑した。切れ長の目は僕を見据えることなく、ただ自らの指を捉えて笑っていた。
弁論に上手く絡めたなあ、とでも思っているのか。いったい何なのかよくわからない。

「ああ。良いんじゃない?」

苦笑を収めると男はそう呟いた。

「じゃあ、それにします」

メニューを閉じて呼び鈴を押した。





中編
--------------------
2010.01.24

もう話が見えなくなった!(^ω^)←

前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ