「今日の試合でHomerun打ったらKissさせてくれ」
吹いた
盛大に吹いた
あんまり唐突に言われたもんだから、ちゃんと理解も出来ない内にほぼ反射的に吹いた
水の張り詰めた霧吹きから堪らん、と水が吹き出すのを大音量でお届けする様に吹いた
口に含んだばかりの透明感のある黄色の炭酸水が盛大に前方へ噴射される様を、俺は何処か第三者の出来事であるかの様に見た
前方に居た人物はモロにその被害を受けてあわや大惨事、俺はというと口許や首付近が炭酸水に含まれる糖分でベタつくだけに留まった
兎に角、吹いたんだ
「何のつもりだ手前ェ」
「何言ってンだ手前ェ」
声が被る
次を紡ぐのを躊躇していると、幾ら色男と言えど何故炭酸水なんかの滴を髪から垂らさなきゃならねぇんだ、と俺の言い分も聞いてくれなさそうな剣幕だ
「だーかーら、Homerun打ったらKi」
「あー、あー、あー、聞きたくねぇ!」
「子供かお前は!」
耳元でパタパタと忙しなく手を振りながら、俺の脳内のターンテーブルはテストの時よりもずっと速い回転を繰り返す
顎の曲線を伝い、乾いた土色の地面に幾つもの染みを作っていく液体を俺は肩口に何度も焦れったく擦り付ける
首筋にじわりと汗が湧いた
「…何で、急にそんな話、」
暫く荒くなった呼吸を整え、落ち着いた所でグルングルンと回転を続けるテーブルを無理矢理に止めてみると何だかとてつもなくこっ恥ずかしい
キス
思春期ともあって、眼に焼き付けた大好きな少女漫画のキスシーンの数々が走馬灯の様に折角収まり掛けたテーブル上を駆け巡る
両耳が段々と感覚を無くし、周囲に纏わり付いていた夏の熱気が急に冷めていく様に感じられた
「急じゃねぇ、お前が何時まで経ってもさせてくれないからだ」
「そりゃお前、」
反論し掛けて馬鹿らしくなる
キス位なんだと言ってくる俺が居て、いやいやキスだぞ良く考えろと訴えてくる俺が居る
「俺ら付き合ってンだろが」
「そうだけどよ、」
「だから、Kiss」
「だからなんでそうなる!」
俺は業を煮やして叫んだが、折角整えた呼吸が再び乱れるだけだった
眼前の男の姿勢は相変わらず揺るがない
普段ゆるゆるで開きっぱなしの口の端をしっかり引き結んで、黒い眼帯に隠されていない方の黒目がちな瞳で真っ直ぐ俺を見てくる
―…嗚呼、くそっ
こんな時ばっかり、真面目な顔しやがって
俺がその顔を一番好きな事を、知りもしない癖に
「…分かったよ」
殆ど無意識だった
俺じゃない誰かが、俺の口を勝手に借りて眼の前の可哀相な男の為に優しい言葉を掛けてあげたのかと思った
優しい奴も居たモンだ、と
「…本当か?」
男の顔がぱっと明るくなった
笑っている
また締まり無く開けられた口が、笑っている
それは旨い物を食った時にも、面白い漫画を読んだ時にも見せた事が無い、飛び切りの笑顔だ
認めねぇぞ、
…ちょっと可愛いって思っちまった、なんて
その笑顔が今にもキスしそうな位に近かったから、思い切り殴り飛ばして送り出してやった
「頑張ってくるからな!」
だらしない笑顔の儘走って行く、意外と広いその背中に
打てなくても、ほっぺにキス位はしてやるよ
と思ったけど口にはしなかった
「…打って貰わなきゃ、困ンだよ」
青空に高く打ち上げられた白球
笑顔の打者が球場を駆けた
高らかに上げた右腕の、たった一人の為のピースサイン
顔が、熱く火照るのを感じた。
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