小話
□ありがとう
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「曽良君」
呼ばれて振り返ると、その人は笑って立っていた。
「芭蕉さん」
名を呼ぶと、ほっこりと顔を綻ばせながら駆け寄ってきた。
あのね、と僕の手を取って
「伝えなきゃならないことがあったから」
手のひらに指で何やら書き始める。
スラスラと、目には見えぬがこの人の字は相変わらず美しい。
「・・・・・」
「ね、曽良君」
「はい」
芭蕉さんは言葉を書き終えると、僕の手をゆっくりと閉じてその上に己の手を重ねた。
「君は今、幸せ?」
「・・・・・」
何故そんなことを聞くのだろう。
よくわからないがとりあえず頷く。僕は今、きっと幸せだから。
「そっか、良かったぁ」
芭蕉さんはそう言って笑うと、消えた。
「お客さん、お待ち」
「は」
ことり、と目の前に丼が置かれる。
あぁそうだ、僕は蕎麦を頼んだのにあまりにも遅いものだからうたた寝してしまったのだったか。
店は昼過ぎで大変混雑しているから遅いのも仕方が無いのかもしれないが、そのせいでなんとも言えぬ夢を見てしまったから文句を言ってやりたくなる。
「すまんね、人手が足りなくってさ」
「・・・いえ」
「ごゆっくり」
さて食べるかと箸を割ると、ふと手のひらに目がいった。そういえば、夢の中であの人は何かバカなことを書いていた。
「・・・そんなこと、今更言われなくとも」
わかってますよ。
ズルズルと蕎麦を流しこんで、店の者に一つ持ち帰りたいから作って欲しいと声をかけた。
今日は蕎麦でも持って、あの人の所へ行こう。行って句の一つでも詠んでみようか。
それから僕もあの人がしたように、指で書いてやろう。きっと驚いて馬鹿騒ぎするに違いない。
「お客さんお待ちどーさま」
「ありがとうございます」
「丼はまた持ってきておくんな」
「わかりました」
ねぇ、芭蕉さん。
僕は今幸せです。他ならぬ貴方のおかげで、世界を知れたから。
ねぇ、芭蕉さん。
だから心配せずに先に行ってまっていてくださいよ。
貴方が望んだように、きっともっともっと幸せになってみせるから。
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芭蕉さんの命日の曽良君の一日。
この後お墓参りしにいきます。
ちなみに芭蕉さんが書いた言葉がタイトルになってます。
蕎麦食べてるのは芭蕉さんが蕎麦好きだったらいいなと思ったからという理由です。
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