桜色の長絵巻
□陰暝編
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暗い、冥(くら)い、黎明(よあけ)のような一筋の光さえ差し込むことのない、深淵とした闇だった。
そして、いつも自分は何かから逃げるように、前後不覚な状態であっても、ただひたすら走っていた。
けれどそれは、今の彼女がしてはならない行動だ。
彼らとの約束を反故(ほご)にする行為だ。だが、そのことに構う余裕なぞ、彼女にはなかった。
ただ、何かから逃げなくてはいけない、ただそれだけが千鶴の四肢をつき動かしていた。
息がままならなくなるほど走り続け、深淵とした闇の中をあてどなく走り続けた。
また一歩と足を踏み出したその時、何かに躓いたのか前のめりに千鶴の身体が傾く。
何が起こったのか解らず、千鶴は呆然としたまま荒くなった息を整え、自分の足を見る。
だが、視線の先には血溜まりが出来ていた。
そして、さらに視線を今しがた自分が走ってきた方向を見れば―――。
「いやあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ―――――――――っ!」
彼女が悲鳴を上げた直後、先ほどのことが夢だということに気づき、千鶴は我に返る。
だが、まだあの悪夢の続きではないのか確かめるために、恐る恐る、彼女は掛け布団の上から感触を、布団をまくり自分の足の有無を確かめた。
今度は、自分の手で、自分の足首に手をやって確かめる。
そして、飽くことなく触り続け、大丈夫だと安堵の息を吐く。
その直後だった。
「……気はすんだ?」
唐突に声をかけられたことで、千鶴の小さな肩が大きく跳ねる。
ゆっくりと、声のした方を見た瞬間、千鶴は目を見開き、呼吸さえも忘れそうになった。
そこには、新選組幹部である沖田がいたからだ。
彼が何故ここに居るのか、それを考えた直後、どこからかドタバタと慌しい足音が聞こえ、先ほど上げた自分の悲鳴のせいだと理解した瞬間、千鶴は頭を下げた。
俗にいう、土下座で。
その彼女の行動に沖田はおろか、その場に駆けつけた他の幹部連中さえをも瞠目していた。
「大きな声を出してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
その小さな身体と声を震わせながら、千鶴はなおも彼らに謝り続けた。
二度と部屋から絶対に出たりしないと、二度と雑用をしたいなどと思わないなど、さまざまな事で何度も何度も彼らに言った。
部屋から出ないというのは、彼らにとってありがたい言葉に聞こえたが、雑用をしたいという部分に引っかかりを覚えた。
「千鶴、もういいから……。それに、繕い物は俺が頼んだんだから、気にすることじゃ」
「もうしませんから。頼まれても、しませんから……。本当にごめんなさい……」
見かねた藤堂が話かけるが、千鶴は馬鹿の一つ覚えの如く、ただただ何度も『ごめんなさい、もうしません』を繰り返すだけだった。
「あのさ。君、他に何か言う事が…」
「ごめんなさい、もう二度と口を開いたりしません、喋ったりしません。もしお邪魔になるようであれば、私の喉咽を潰してください」
沖田が苛立たしげに声をかけるが、彼女の言った内容に沖田だけでなく、彼らは目を剥いた。
次第に食べ物も、風呂も、部屋も―――生きていく上で、必要な物全てを要らぬと千鶴は言い出すのではないかと、ここに居る全員がそう思い始めたときだった。
「もう、何も要りません。お邪魔でしたら、手足を縛ってでも、斬ってでも構いません。ですが、父が見つかるまでは―――」
彼らの予想を超(こ)えた言葉がするりと、狂気めいた雰囲気を醸し出しながら彼女の口から飛び出した。