桜色の長絵巻
□契機編
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彼女は彼らにとって、どのような存在か。
それを率直に尋ねられてしまうと、彼らは返答に窮してしまうかもしれない。
もしくは、はっきりとどのような存在か何も考えずにスパンと言い切って―――もとい、切り捨ててしまうかもしれない。
ただその『答え』が、彼女と共に歳月を重ねるごとに変化してゆくという可能性に、その時の彼らには思いつくことなどなかった。
また、彼女も彼らと共に居ることが『心地いい』と感じるとは、当初は考えられなかった事だ。
※ ※ ※
真っ暗な闇の中、千鶴は走り続ける。
何かから逃げるように、ただひたすら走り続ける。
千鶴自身、何故逃げなければいけないかは、ちゃんと理解していない。
ただ漠然と本能が『逃げろ』と伝えてくるのだ。
そして彼女の脚は、本能が出した命令のままに動いていた。
しかし、いくら走れども、ひたりひたりと千鶴を追いかけてくるその怖い『何か』は一定の距離を保ちながら、彼女を追いかけてくる。
その距離は、千鶴がそれの気配を感じ取れるぎりぎりの距離だった。
しかし、それも彼女が袋小路に辿り着いてしまった故(ゆえ)に終わりを告げる。
肩を上下に動かすほどに、彼女の呼吸は乱れていた。だが、千鶴を追いかけていた『何か』は乱していなかった。
その暗闇の中から、血に濡れながらも銀色に鈍く光を放つ刀と、それを持つ血にまみれた手。
腕と白いだんだら模様が描かれた浅葱色の羽織(はおり)が顕(あらわ)れるが、それは返り血と思われるものが大量に付着していた。
そして、最後に顕れたのは、毒々しく、禍々(まがまが)しく見える血のように紅い両目と、晴れた昼の日にお目にかかる雲を連想させるような白髪(はくはつ)を持つ成人男性が千鶴の目の前に立つ。
ぱっと見では、白子(しろこ)かと思う外見だが、千鶴の目の前に立つその男はただの白子とは違う。
何故なら、刀を持っている時点で―――というわけではなく、男の眼が何かに飢えているように血走っていた。
そして、その男に怯えている千鶴を見て、血走った瞳を細めると同時に、口に弧を描くが、それはニタリと気味の悪い笑みだった。
その笑みを見た千鶴は、瞬く間に己の肌が粟立つのを感じる。
喉から迸るかと思った叫びは、恐怖によってただ喉奥で引っかかっているだけだった。
彼女が一歩後退すれば、男がその距離を詰めるように前進する。
そして、背に行き止まりだという印でもある壁にぶつかれば、千鶴は目の前の男を凝視するしかない。
ひゃはっと、狂気じみた短い笑いを口にすると、彼の手にある血まみれの刀を振り上げ、目の前にいる獲物へと振り下ろされた。
「――――っ!!!」
音を立てるほど勢いよく跳ね起きた千鶴は、耳の奥で己の鼓動が激しく脈打っている事を知る。
また、自身の呼吸が走ったあとのように乱れていることも……。
それを整えようと、常の呼吸の仕方を思い出すように一度瞼を下ろし、肩の力を抜くようにする。
呼吸が整えば、何かを確かめるように自身の身体に手を這わす。
納得のいくまで己の状態を確かめたあと、障子越しに降り注ぐ月明かりをたよりに、両手はゆっくりと開いてみる。
そこには、何もなかった。
当たり前であっても、何もないことを確認したあと千鶴は細く、ゆっくりと息を吐き出す。
そこでやっと、寝間着の下にある己の肌が汗で濡れている事を知り、先ほど見た夢を思い出し、ぶるりと身体を震わせた。
そして、今自分がいる場所を確認するように辺りを見回してみる。
江戸から出る際に持ってきたわずかな荷物以外、これっといった物はなく、殺風景だといってもいい部屋。
そして、もう一度息を吐く。