ショート

□ないものねだりの愚か者
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ぐるりと辺りを取り囲む水槽が部屋を青く照らす。ときおり大きな影が光を遮ってあたしの前を悠々と通り過ぎていく。それはあたしには目もくれちゃいないが、あたしはそれと目があったような気がして密かに足の竦む思いをしていた。


「ワニを飼うなんて、バカのすることです。」


じっと水槽を見つめたまま誰にともなく呟く。この水槽の支配者、バナナワニはもう遠くのほうで泳いでいる。


「言ってくれるじゃねえか…誰がバカだって?」


そしてこのカジノ・レインベースの支配者であるサー・クロコダイルはどっかりと大きなソファに腰掛け、ワイングラスを傾けていた。クロコダイルさんは特に気分を害した様子もなく、背もたれ越しにあたしを見る姿をガラスに映す。
この人の目もあの猛獣と同じ…いや、こっちは強固な水槽に閉じこめられていない分もっと危険だ。


「懐きもしない獰猛な生き物、こんな狭い水槽に閉じ込めてたらすぐ死んでしまうか自分の手を咬まれるのがオチですよ。」
「咬まれるなんてヘマはしねぇ。世話もプロがやってる。」


クロコダイルさんは後ろへ捻っていた首を元に戻すと、ソファに深く身を沈めなおした。
彼は分かっているのだろうか。いくら咬まれないよう気をつけても、いくらプロが最高の飼育をしても、猛獣を満足させることは決してできないということを。所詮、フェイクはリアルにかなわないのだ。


「この子たちも大自然の中で生きるほうが幸せでしょうに。」


ぽつりと零れた言葉はクロコダイルさんには聞こえなかっただろう。彼は何の反応も示すことなく極上のワインを飲んでいる。
グラスを満たすそれは赤色。まるでバナナワニの餌食となった、哀れな動物の血液のようだと思った。


毎日、新鮮な肉を与えられてしかも栄養管理も完璧。加えてそこらの動物園なんかじゃ考えられないくらい巨大な水槽。外敵もいない。水温も極めて適度。


(それでも、不満?)


不満に決まってるわ。自由がないもの。

クロコダイルさんはあたしをここから出してくれない。甘いケーキもキレイな服もふかふかのベッドも、欲しいものはなんだってくれるけれど、自由だけはくれない。
それこそあたしが一番欲しいものなのに。


「大自然の中で生きたほうが幸せ…か。」




ふと、クロコダイルさんが独り言のように言った。なんだ、聞こえてたのか、とあたしは再びガラスに映った彼に注意を向けた。
コトリと静かにグラスを置くと彼は立ち上がって大股でこちらへと歩いてきた。彼の長い足はたった数歩であたしとの距離をほぼゼロにした。


「随分と陳腐なこと言うじゃねえか。」


す、とガラスに映った彼がその長い指であたしの輪郭をなぞる。バナナワニの目を見たときよりも、ぞっとした。


「陳腐もなにも…あたしは事実を言っただけです。」


反論をすれば声が微かに震えた。


「捕まったヤツが悪いんだ。自由でいたければ、捕まらなけりゃいい。」


クロコダイルさんの指が、今度はあたしの唇の上をゆっくりと滑る。彼があたしに触れる間、あたしは呼吸の仕方すら忘れたように身じろぎひとつせず体を強ばらせたままだ。


「捕まったヤツの、負けだ…。」


クロコダイルさんの手はあたしの喉元で止まった。ヒクッと喉が鳴って、あたしもクロコダイルさんもそれ以上動かない。


「……自由になりたけりゃ、飼い主を喰い殺すことだ。」


それは水槽の中を泳ぐワニへの言葉か、それともあたしへのものか。
喉に添えられた手は肌の上を滑って離れた。ただなぞるように触られただけなのに、その指先の軌跡からゾワリと氷の冷たさが心臓を覆う。
ガラスに映ったあなたの姿しか直視できないあたしには、自由なんて夢のまた夢ということか。


「閉じ込めたって、手に入るわけじゃないのに……。」


世界から切り離してしまえば、きっとそれは徐々に輝きをなくして無価値になってしまう。

頭の良いあなたはそれに気づいているでしょうに。




(ないものねだりを繰り返す)

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