短編集【ほのか】
□潮騒が聞こえる
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眠くなる自分を叱咤して、『どうしても海が見たい』と望んだ。
山あいの小さな村で生まれ育った私は、一度も海に行ったことがなかった。
『どうして海に行っちゃいけないの?』
行きたいと駄々をこねる私を、母はいつも優しく宥めすかした。
『アユミがもうちょっと元気になったら連れて行ってあげましょうね』
従兄弟が日焼けして帰ってくるたびに、私は彼女が羨ましくて仕方なかった。
智寛という男の子に会ってからは、その気持ちが益々膨れ上がった。
彼は私と違って、海の見える街で生まれて育ったらしくて、海の事を話す時は一段と嬉しそうにする。
家は、海沿いで旅館を経営しているそうだ。
あんまり楽しそうに話すものだから、私の中の『行きたい病』は、日々募るばかりだった。
『いいなぁ。行きたいなぁ』
私が言うと、智寛は嬉しそうに
『じゃあ、僕がアユミを海に連れて行ってあげるよ!』
元気よく、そう言った。
それが、私の記憶に鮮明に残っている智寛のコトバ……
重力に抵抗しながら、私は『海が見たい』と強く望んだ。
それは純粋に見たいってワケじゃなくて、そこに行けば智寛と会えるような気がした。
海に行けば、失ってしまったモノをもぅ一度手に入れることが出来るんじゃないかと思ったんだ。
智寛は、私の一番最初に出来た友達だった。
智寛は、まるで太陽から生まれて来たみたいに私を照らして、元気を分け与えてくれた。
『アユミを海に連れて行ってあげるよ』と言われて、私は心の底から嬉しいと思った。
その言葉には、僕と一緒に……というニュアンスが含まれていたから。
テレビの中でしか聞いたことのない、波の音が聞こえる。
ヒヤッとした海の水が足元にあたる。
潮の匂い。
珊瑚が砕かれて出来た、細かい砂の粒子……
『青い空に、大きな雲が浮かんでるんだ。たまに遠くで白い鳥が鳴きながら飛んでるんだ。その声を聞きながら目を閉じて、砂浜に大の字になって寝転がると、とっても気持ちがいいんだ』
彼の話を思い浮かべて、私は重い瞼をゆっくりと上げた。
想像していた海は、果てしなく大きくて…そして優しかった。
私の海のイメージは、智寛のように明るくて暖かい場所だった。
それなのに。
「……ここ何処?」
目の前に突き付けられた暗黒の世界。
身の毛がよだつような壮絶な恐怖が私を襲った。
視界に広がるのは、青い空じゃない。ただ、永遠に続く闇。
聴覚に訴えるのは鳥の声じゃない。海風が悲しく唸る悲鳴。
私は咄嗟に身を引いた。
どうやってここまで来たのだろうか。私は、裸足で暗い闇の波打ち際に、足を投げ出して座っていた。
掴んだ砂の感触が、ヒンヤリと手に伝わって、私は身体の芯から薄ら寒くなった。
(ここはドコなの?)
後ずさりしていると、ポッカリ宙に浮いた穴のような海に吸い込まれそうになった。
どんなにプラックホールから遠ざかっても、その引力から逃げることは出来ない。
たまらなくなって、私は震える足を引き摺って、海に背を向け走り出した。
それでも、恐怖はなくならない。
なんだか、暗闇の海から大きな手がニュッと出てきて、私を海に引き摺り込もうとしているみたい。
私はゾッとした。
見えない手から逃れるように、心の中で必死に叫んだ。
(嫌……怖い!私、まだそっちに行きたくない……!)
声は喉に張り付いて出なかった。
砂に足を取られる。海の暗い触手はすぐ傍まで来ている。
(やだ。どうして前に進めないの!?助けて!!)
混乱に身をやつした時だった。
とうとう、私の肩に生身の手の感触が伝わった。
「きゃあああああああ!」
引き摺り込まれるっ。
私はありったけの声で叫んでいた……。