短編小説2

□おっさん収納庫
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ぜんぶ、ぜんぶ。

終わらせようと思った。

毎日なんのために生きてるのか分からなくて、苦しくて、怖くて、朝日が昇るのが嫌で嫌で嫌で。
こんなにも息が詰まるのなら、いっそ窒息して死んでくれたらいいのに。

なのに、私はまだ生きている。

だから。

全部自分の手で終わらせようと思った。

苦しんで私を産んでくれたお母さんに悪いから、遺書にごめんなさいって書いた。
本当は汚い私だけど、最後くらいはせめて綺麗な心でいたいから、怖くてたまらないあの人達を許すことにした。

一本だけあった虫歯を治療した。

綺麗な体と綺麗な心で死にたかった。

……そう思ってたけど、どうせぐちゃぐちゃになるんだろうなぁ。

「意味ないなぁ」

吹き抜ける風を感じながら、私は街中にある10階建てのビルの屋上でそう小さく呟いた。

さっき、このビルの4階にある歯科医院で全ての治療が終了して。

そのままここへとやって来た。

この建物は4階の歯科医院と8階の婦人科以外、会社になっているらしくて。
案外簡単にここまで上がって来られてしまった。

たぶん、社員さんがお昼ごはんや休憩を取るために解放されてるんだろう。

ずいぶん小さく見える地上の通行人さん達を見下ろして、人間というのはなんと小さいものだろう、と私は思う。

空を見上げる。

大きな空と小さな私。

そこで『私の悩みなんてこの大きな空に比べたらなんて小さなことだろう』と思える時期は終わってしまった。
今はもう『この大きな空の下で私が死んだところで、それは取るに足らない小さなことだ』としか思えない。

そうだ、もう、終わりにするんだ。

楽になるんだ。

そう思って、さあ下に飛び降りようとしたけれど、足がすくむ。
おかしな話だね、死ぬためにやって来たのに怖いなんて。

仕方ない、背中から飛ぼう。

軽く自嘲しながらそう考えた私は、柵に手を掛けて地上へと背を向けた。
つまり、屋上へと向き直ったわけだ。

そこで。

私は、彼に出会ったんだ。

「こんにちは」
「…………」

声が出なかった。

振り向いた私の目の前に居たのは、見知らぬおじさん。
屋上のベンチに座って、どこで買ってきたのかは知らないが、こんな時期にざるそば食べてるスーツ姿のおじさん。

……さっきまで、ここには誰も居なかったはずなのに。

「ぁ、ごめんね驚かせた?さっきそこでタバコ吸ってたの」

喫煙家にはつらい世の中になって来たんだよねぇ、そう言っておじさんはお箸でタンクの裏を指す。

……なんだ、このひと。

自分が行おうとしている“自殺”という行為が特殊なことであると理解している私には、彼がなぜこんなにもあっけらかんとしているのかが分からなかった。

いや、べつに止めて欲しいとかそういうわけじゃないけど。

だけど。

「なに、飛び降り自殺?」

普通そんなこと聞く?

しかも、ずるずる蕎麦すすりながら。

「……だったらなんですか」
「やるんなら、下歩いてる人に当たんないようにやんなさいね」
「……あなたに関係ないでしょう」
「関係あるよ。俺ここに勤めてんの。二人分になったらそれだけ死体の後始末にも時間かかるし、帰りの時間にかぶったらヤじゃん」

呆然としてる私の前で袋からペットボトルを取り出しながら、おじさんは続ける。

「知ってるか、飛び降りの死体って地面に叩き付けられてベッタリへばり付くから引っぺがすんだってさ」
「……そんな脅しで止めると思わないでください、」
「そか。そりゃ残念だ」

ぺき、と良い音がして。
見下ろせば、おじさんがペットボトルの蓋を開けていた。

ちらりと見えた袖口の下の腕時計がすごく古臭くて、ああ、この人は大人なんだ、と頭の片隅で思った。

「……残念だな」

お茶を煽りながらそう呟くおじさんの心理が私には分からない。

「……なにがです」
「なんだかなぁ。こんな老い先短いおっさんが生きてて、キミみたいにまだまだこれならな若者が死ぬっていう世の中がね、なんだかね」

キミ、高校生?

そう問い掛けられて、こくりと頷く。

変な気分だった。
足は半分死に浸かっているというのに、今こうして、私は見知らぬおじさんと会話しているのだから。

「大学面白いぜぇ?コンパ行って飲んで吐いて馬鹿やってさぁ。俺ならそれやってから死ぬね。社会人なってから。」
「……あんまり好きじゃないと思います、そういうの」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ?」

だからとりあえずもうちょい生きてみたら?

おじさんはそう言って笑うけれど、私には分からない。

「どうして……、」

どうして、会ったばかりの私を生かそうとするの?
ここで死なれたら迷惑だから?

「それもあるけど、」
「けど?」
「……じゃあ逆に聞くけどさ、キミはなんで死にたいの」
「…………私が死んだところでなにも変わらないなって、思って」
「お母さん悲しむぞ」
「そうでしょうね……3年くらいは」
「友達だって、いきなりキミがこんなふうに居なくなったら困ると思うけど?」
「もって半年かな」

……ヘンなの。

ちょっと後ろに体重をかければ飛び降り自殺が成立するようなこんな状況で、私とおじさんは優雅に会話してる。

なにこれ。ヘンなの。

「私が死んだってなにも変わりませんよ」
「……ま、否定はしないな」

そう言って、おじさんはいつの間にか取り出したらしいタバコに火を付けた。

「キミが死んだところで、世界にとっちゃあ蚊が死んだくらいのもんだ」

そういうの、好きです。
変に嘘つかれるよりよっぽど良い。

「でもだからって死ぬのか?なにも変わらないから?」
「……べつにそれに不満があるわけじゃ、」
「じゃあなんで死ぬ必要がある?」
「…………しんどいの、やだなって。それで、死のうかな、って。そしたら、なんか、なんかこう、私死んでもなにも変わらないなって、気付いて、そしたら、なんか……分からなくなって、それで、」
「受け答えに難有り。目が泳ぎすぎ。言葉がすぐ出ない。回答が不透明すぎる。……俺が人事部ならまず落とすな」
「…………へ?」

おじさんが何を言ってるのか分からない。

そんな、なにも言えずにきょとんとしている私の前で、おじさんはろくに吸ってもないタバコをベンチに押し付けて揉み消した。

「わけ分からんから死ぬ?だったら俺は新人入って来るたび死んでんな」

そう言っておじさんは少し荒っぽい手つきで胸ポケットから再びタバコを取り出して、その中の一本を口にくわえる。

「良いか、意見は纏めろ。万人に伝わるようにしろ。なに言われてもすぐ答えられるまで頭に入れろ。そう出来るまでは企画上げんな、行動すんな」
「……なんですか、それ」
「俺が毎年新人に言わされてる台詞」

毎年よ、毎年。
そう笑いながら、おじさんは火を付けたタバコを通した空気を大きく吸い込んで、それからふーっと吐き出した。

その煙は私へと届く前に空に溶け込む。

「あのね、わけ分からないままならまだ早いわ。5年は早い」
「長い……」
「長くねぇよ。大学行って就職したらあっちゅう間だぞ。いつの間にか女子高生におっさんとか呼ばれんだぞ。人生って怖えーよ、ほんと」

そう言って、あー怖い怖い、と頬を擦るおじさんを見ていたら笑ってしまった。

そんな私を見て、おじさんは少し気の抜けたような笑顔を浮かべる。
ちょっとだけ疲れたみたいな笑顔が、心地良かった。

「キミが死んだら俺もちょっとだけ悲しい……、かな」
「ちょっとだけですか?」
「ちょっとだけだよ。なに、キミは自分がそんなに偉大な存在だと思ってるわけ?」
「……そうじゃないですけど」

なんだかそう言われてしまうと、さっきまで自分がしようとしていたことに妙な違和感を感じる。

あぁ、そうか。

私はただの子供なんだ、やっぱり。

自分が死んだって何も変わらない、そんな世界に駄々をこねてるだけの子供なんだわ、私なんて。

「キミが死んでも世界は変わらない」

……ええ、そうです。

「だけど、キミが生きていることで変わる世界はあるよ」

…………そう、かなぁ。

「そうだよ。とりあえず俺には女子高生の友達が出来る。ヤッタネ」

ばかみたい。

「だからほら、こっちおいで」

そう言って伸ばされた腕。

戸惑いつつもそれに手をかければ、もの凄い力で引っ張られて。
私達は屋上の冷たいコンクリートに二人揃って倒れ込んだ。

今日会ったばかりのおじさんの上に乗っかったまま、私は考える。

人生、なにがあるか分からない。

「あ、ッち……!」

突然聞こえた小さなうめき声に顔を上げれば、おじさんが手に持っていたタバコをコンクリートに落としていた。

その手は僅かに震えている。

「……ふるえてる」
「ったりめぇだろこのお馬鹿さん!あのまま死なれてみろ!俺のトラウマベストスリーにランクイン間違いなしだぞ!!」

あーもー、おじさん焦らせないでよね……ッ!
ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜながらそう唸られて、なんだか少しだけ幸せな気分になってしまった。

そしてそんな気分のまま、おじさんの落としたタバコを拾って口をつける。

「拾いタバコすんなよ女子高生」
「悪いことなんて、初めてします」
「へー、どんな感じ?」

じんわりと口の中で広がる煙の匂い。

それが鼻に抜けてツンとする。
喉に煙が纏わり付くように感じたから、肺に入れるのはやめておいた。

それでも。

「……苦い、です」
「だろ?人生そんなもんだ」

そう言って、おじさんはくしゃりと顔を歪めて笑う。

少しだけ、生きてみようと思った。











『酸いも甘いも』
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