短編小説4
□be with you
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「ねぇ、お願いっ……ローガン、いれてちょうだい、ねぇ……っ?」
振り向いた若い女は笑う。
女独特の、その笑顔を浮かべて。
……はは、お嬢さん。
お遊びはここまでだ。
「醜い生き物だな、きみは」
「……え?」
「愚かだね。取り柄といったら若いだけで、淫乱で、ブタ以下だ」
ずるりと女の中から指を引き抜いて。
女の体液でべとべとになった手袋のまま、呆気に取られる女の頬を撫でてやる。
「私はブタと交尾する趣味はないんでね」
きみ達みたいな生き物は嫌いなんだよ。
「きみ達みたいな、女って生き物がね」
パァン!
バルコニーに響いた破裂音。
頬の痛みは予想していたよりもずっと酷いものではなく、私は冷静に、走り去る女の背中を見つめていた。
よくあんなドレスとヒールで走れるものだ、と。
なんだか一気に気が抜けたような気分だった。
気分の悪さと酷い疲れに任せ、私はこの屋敷の派手なカウチにもたれかかる。
視線を上げるのも億劫で、私は隣の部屋やカーテンの向こうから響く嬌声を聞き流しながら、ぼんやりと赤い絨毯を見つめていた。
だから、気付かなかった。
見栄えと礼儀のために持って来た私のステッキを持った少女が、カウチに腰掛ける私のそばまで来ていたことに。
「…………ローガン様」
初めに視界に入ったのは、深い藍青色のステッキ。
それから、編み上げのブーツ。
凝った装飾のされたそれを追うように視線を上げれば、紅茶色の瞳を持つ少女が、仮面の向こうでその紅茶色を困惑に揺らしていた。
「……アップルティー」
「お具合が悪いのですか?お顔の色も優れませんし……」
皆さま、苦しそうなお声ですし。
ここは休憩室でしょうか?
そう言って周りを見渡す少女の紅茶色の髪は、びしょびしょに濡れている。
「……アップルティー、髪をどうした?」
「ぁ、これですか?これは……その、先ほどのご婦人がお急ぎだったようで、ぶつかってしまって……、」
濁った紅茶色が、ゆらゆらと揺らぐ。
……嘘をつくのが下手な子だ。
大方、持っていた白ワインをかけられてしまったのだろう。
それくらいのことをした自覚はある。
「……すまないな、アップルティー」
「……?どうしてローガン様が謝るのですか?」
「…………いや、勝手にバルコニーまで来てしまってすまない。迷っただろう?」
「いえ、そんな!……そ、そりゃあ、少しだけ迷いましたけれど、」
全然、大丈夫です。
へっちゃらです。
そう言って、アップルティーは胸を張る。
幼い強がりに胸がほころぶのと、早くこんな屋敷から出て行かなくてはという気持ちが強くなったのは、ほぼ同時のことだった。
「アップルティー、帰ろうか」
「……はい」
「なんだ、嬉しいか?」
「いえ……でも、ローガン様のお具合も優れませんし……。お手をどうぞ」
「ああ、すまな、い……、」
座り込む私に差し出された、幼い手。
まだふっくらとしたそれに手を重ねようとして、私は気付く。
自分の纏っている白い手袋が、濃いオンナの匂いに汚れていることに。
どく、と心臓が脈を打つのを感じた。
「…………ローガン様?」
ああ、手袋を外さなければ。
こんな汚い手で、アップルティーに触れるわけにはいかない。
こんな汚い手で。
……手袋を外したところで、私はもう汚れてしまっているのに?
あんな若い娘を、鬱憤を晴らすためだけに傷付けて。
何人もの女をぼろぼろにして来た私が。
こんな汚い私が。
これほどに純粋な少女に、触れて良いのか?
「ローガン様!」
高い声と、柔らかな痛み。
私を現実へと引き戻したのは、少女の小さな手のひらだった。
「しっかりしてください、もう!」
そう言って、少女は私の頬をぺちぺちと柔らかく叩く。
先ほどの冷たい痛みとは違う、あたたかな手の平にハッとした。
「アップルティー……私に触れるな」
「……?やっぱりお具合が、」
「やめろ!」
体温を計るために、私の額に触れようとする小さな手の平。
怒鳴らずにはいられなかった。
私に触れることで、純粋な少女がどんどん汚れていく気すらして。
私は汚れてしまっている。
心の内まで、どす黒く汚れた感情でいっぱいで。
その渦から逃れることも出来ない。
……助けてくれ、なんて。
少女のあたたかさに触れて楽になりたいだなんて、都合が良すぎる。
私には一人がお似合いなんだ。
一生、ずっと、このまま。
手袋を投げ捨て、私は一人で立ち上がる。
「…………」
滅多に声を荒げない私が上げた罵声に驚いたのだろう。
アップルティーはぽかんと私を見上げていた。
「……帰るぞ」
そんなアップルティーの横を、すり抜けようと足を進めた、その時。
ぐ、少女の口元が引き結ばれるのを見た。
「待ってください」
ふわりと触れた柔らかさ。
少女は、私の手を引く。
汚れた私の手を。
「や、めろ……!」
「今日のローガン様はおかしいです。どうなさったんですか?」
「っ、なんでもないさ……」
「さっきのご婦人に意地悪されましたか?何か嫌なことを言われましたか?」
違う。違うんだよ、アップルティー。
意地悪をするのは、いつも私の方なんだ。
「離せ、アップルティー……!差し出がましいまねを……っ」
「なら、ローガン様から振り払ってください……ッ!!」
耳に入って来た言葉。
そうして初めて、私は自分が少女と目を合わせまいとしていたことに気付く。
少女は、強い瞳で私を見上げていた。
「わたしは離しません!絶対絶対、今のあなたを一人にはしません!!」
じゃないと、あなたは。
「あなたはまた、迷子になります……!」
イヤなら、振り払ってください。
簡単でしょう、わたしみたいな子供を振り払うことなんて。
そう叫びながら。
少女の瞳には僅かに涙が浮かんでいく。
「わたしは絶対、ローガン様と一緒に居ますから……!」
あなたを絶対に、一人にはしません!
そう叫んだ子供を。
私は、力の限り、抱きしめた。
やわらかな体。
ちいさな体。
私が床に膝を付かなければ抱きしめられないほど幼い少女は、私の背中をあやすように撫でながら、笑う。
「苦しいですよう、ローガン様」
そのやわらかな声を聞きながら、私は誓った。
悪魔に心を売った。
どこまで堕ちても良いと。
この子を汚すことになっても。
傷付けることになったとしても。
絶対に、二度と。
この子を離さない、と。
END.