短編小説3
□blue
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わたしはトキさんの家に転がり込んでからすぐ、仕事を見つけた。
わりと近所にあるパン屋さん。
恥ずかしい話だけれど、今まで仕事もアルバイトもしたことの無かったわたしは、履歴書の書き方も知らなくて。
大きな羞恥心と、小さな屈辱感。
それを抱えながら「履歴書の書き方教えて」と呟いたわたしを笑うでも無く、トキさんは快く頷いてくれた。
学歴にちょっとびっくりされたけど。
なんとか面接に合格したものの、わたしは最初、ちっとも使えないアルバイトだったと思う。
叱られては泣きそうになりながら家に帰り、トキさんに「最初はそんなもんだよ」と笑われたのも良い思い出だ。
仕事で疲れているだろうに、家に居る時間さえ合えば、トキさんは嫌な顔一つせずにわたしの話を聞いてくれた。
……そう、仕事。
トキさんは、あの仕事を続けてる……当たり前だけど。
あれは彼の仕事だ。
たまにそういう系の雑誌を読んで情報を仕入れたり、パソコンでそういうDVDを見て研究したり、なにやらわたしにはよく分からない機械の操作を練習したり、そういう時のトキさんは真剣そのもので。
そういう姿を見るたびに、わたしは彼がどれだけプロ意識を持ってあの仕事をしているかを思いしらされた。
だけど。
やっぱり、なんか……こう、彼の仕事を思うと、良い気持ちはしない。
もちろん、無理矢理にわたしと彼の出会いを思い出させられるし、それはやっぱりわたしにとってトラウマみたいなものなわけだし、それに……。
仕事の時間は毎回ばらばらで、朝早くに出て行くこともあれば、夕方や夜遅くに出て行くこともある。
もちろん帰りの時間もばらばらで、二人分作った夕食の一人分に、ラップをかけることの方が多いくらい。
そんな不定期で、決まった時間に食事を取れない仕事なんて体に良くないと思うし、それに、それに…………。
それに、やっぱり、やっぱり、仕事から帰って来るトキさんからは、いつも違う匂いがして。
香水なら、まだマシな方。
うちにあるシャンプーと違う匂いがする方が、大打撃。
ああ、そこまでしなきゃいけないくらいのことがあったのね、って。
あの日、わたしにしたようなことを他の人にもするのねって。
やっぱり仕事だったのよね、って。
泣きそうになる。
……最初のあれ以来、トキさんは約束通り、わたしに指一本触れて来なかった。
約束を守ってくれる、良いひと。
なのに。
……なのに。
たまに、なぜか。
泣きそうになるわたしが居るんだ。
◇◇◇
とある土曜日の夕暮れ。
パン屋でのアルバイトを終えたわたしは、いつもの道を通って、トキさんのマンションへと帰る。
オートロックのロビーを貰った鍵で通って、エレベーターで14階まで。
誰も乗って来ることの無かったエレベーターは少しの浮遊感をまとって14階で停止し、わたしは自然にトキさんの部屋へと足を進めた。
ガチャン。
ドアを捻るも、その部屋はわたしを拒むかのように口を閉ざしたまま。
……そう言えば、昼から仕事だって言ってたっけ。
そんなことを思いながら、さっきロビーで使ったばかりの鍵をポケットから取り出して、この部屋を無理矢理にこじ開けた。
「……ただいま」
がちゃん、と背後でドアの閉まる音。
わたしの小さな声。
それだけが一瞬響いたブルーの部屋は、再び、しん、と静まり返る。
外は夕焼けに近いオレンジ色だったのに、部屋の中は鮮やかなブルーのカーテンによってまるで外の世界から切り取られたようで。
本能的に、ああ、このままここに居ちゃいけない、と思った。
このままじゃわたしはだめになる、って。
きっと、彼に言っちゃいけないことを言ってしまう。
寂しい、なんて。
悲しい、なんて。
行かないで、なんて。
絶対に、言っちゃだめだ。
「……っ」
行き着いた答えにゾッと背筋が冷える。
ああ、だめだ、だめだ、だめだ……!
いつの間にか玄関に落ちていた鞄もそのままに、わたしは無我夢中で靴を脱いで、転びそうになりながら部屋に駆け込む。
鮮やかなブルーの光りが差し込む、寂しい色をした部屋。
だけど。
「結構気に入ってるんだ」とカーテンを開けながら笑った、少し照れ臭そうな笑顔とか。
二人でごはんを食べるために買いに行った、小さな折り畳みのテーブルとか。
身を寄せ合って、パソコンの小さな画面で見たせいで「迫力無いね」なんて笑い合ったホラー映画とか。
寂しい色をしたはずのこの部屋には、彼のあたたかさがあり過ぎて。
だからこそ、もう、きっと、ああ、もう。
彼を好きになることだけは、あってはならないことだったのに。
“彼”は“わたしの恥”の象徴で、消さなくてはいけない記憶で、嫌悪しなければいけない存在で。
それより、なにより。
わたしは彼にとって、ただの、一度だけ“仕事”をした“かわいそうな子”でしか、ないのに。
だから。
こんなこと、絶対に許されない。