短編小説3

□名もなき風と夢語り
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くるしい。
息ができない。

この館には、風が吹かない。

……せめて。

せめて。

風が吹けば。

風さえ、吹けば。

偶然に鳴ったこの鈴の音を聞き付けて。
あなたが来てくれるかもしれないのに、なんて。

私はそんな、悲しい夢を。

悲しい悲しい、悲しい夢、を。

見てしまう。





















『名もなき風と夢語り』






















ぼんやりとした視界の中。

見上げた天井は、いつもと同じ。
重苦しい布団に押し潰された自らの体は、じっとりと汗で濡れている。

「…………はぁ」

吐いた息は、自分が思っている以上に熱をはらんでいて。

ああ、やってしまった。と。

さっきとは違う、溜め息をつく。

「……ごめんなさい」

誰も居ない部屋で、ぽつりと呟く。

誰も居ない。

お父様も、お母様の魂も。
旦那様も、霧矢も。

影時も。

今の私には、なにも無い。

「ごめんなさい」

病に臥せったりして、ごめんなさい。

旦那様は会合で遠くの港街へと行っているし、私を心配した霧矢は遠くまで薬草を探しに行ってしまった。

家の者達が、私に近付くはずもなく。

私はひとり、だった。

「……かんにんえ」

誰も居ない部屋で、禁じられた言葉をひとり呟く。
そうすれば、あの日に戻れる気がして。

そんなわけ、あるはずもないのに。

「……くるしい」

指先ひとつ動かすのでさえ億劫なほどに重い身体と、それ以上に重い頭。

それを、引きずるように。
顔を横に向ければ、真っ白な障子が目に入った。

……開けようか。

障子を開ければ、そこには中庭がある。

今の時期なら、真っ赤に染まった紅葉が美しい中庭が。

旦那さまが居ない時は部屋から出ないようにと言われている私は、毎日中庭を見つめているからよく知っている。
毎日毎日、私は霧矢と並んで中庭を見つめているのだ。

風の吹かぬ、この館の中庭を。

「…………」

重い腕を障子に伸ばそうとして。

そして。

私はそっと、その手を畳に落とした。

…………やめよう。

もう、悲しい夢を見るのは。

やめにしよう。

この館に、風は吹かない。

影時は。

もう、私の忍じゃない。

「っ……ふ、うぅ、」

くるしい。
くるしい。

体が重い。

息ができない。

胸が、くるしい。

「うぅ、ぁ……ひっ、く、っく、」

江戸に嫁いでから、はやニ年。

一度だって泣いたことなんてなかったのに。

悲しくて、寂しくて。
くるしくて。

涙が溢れて止まらない。

「っ、うぅ、う……!」

重い布団を頭までかぶって。
声を押し殺して。

小さな鈴を握り締めたまま。

私は唇を噛み締める。

だめ。泣いてはだめ。
泣いたら、霧矢が心配する。
旦那様に嫌われる。
お父様の好意を無駄にしてはいけない。

泣いてはだめ。

泣いたら、影時が。

影時が、心配して、駆けてきて。

『どうしたの?』なんて、少し面白がるみたいな顔して、私を小突くから。

泣いたら。

影時が。

影時、が。

…………影時は、もう居ない。

「ぅ、っ、うわぁあぁああん」

気付いてしまえばもうだめだった。

私は重苦しい布団にもぐったまま、大声を上げて泣きわめいた。

でも、大丈夫。

私はひとりなのだから。

屋敷の一番端にあるこの部屋に侍女は寄り付かないし、霧矢は居ない。
旦那様も、お父様も。

影時も居ないのだから。

だから、大丈夫。

「うわぁああんっ、うぅっ、くっ……ひ、っく、ふぅううう、っうう、」

泣いて、泣いて、泣きわめいて。

泣き疲れて。

小さな鈴を握り締め続けた手の平が痛み始めた頃。

すう、と障子が静かに開く音がした。

……霧矢が帰って来た?
それとも、偶然近くを通った侍女が声を聞き付けた?

そんなことを思ったけれど、私は布団の中にもぐったまま動けない。

ぱたん。

障子の閉まる音。

私が眠っていると思い込んでいるのか、部屋へと入って来たその人は、音も立てずに私のもぐる布団のそばへと正座したようだった。

歩く音も、正座する音も立てず。

その人は私のそばに座り、そうして、布団にもぐったままの私をあやすように、ぽん、ぽん、と布団を撫でるのだ。

……私はこの気配を、知っている。

ぽん、ぽん、ぽん。

私はこの手を、知っている。

…………ああ。

ああ、私はまた、悲しい夢を。


 
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