短編小説3
□真夜中のレッスン
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「……髪の結い方も?」
「…………はい」
「縫い物も、料理もか?」
「…………はい」
わたしには、母が居ませんから。
そう言って、少女は悲しそうに微笑んだ。
『真夜中のレッスン』
しん、と静まり返った部屋。
私が書類をめくる音だけが響く書斎は、耳鳴りがしそうなほどに静かだった。
当たり前か。
部屋に置かれた古い時計は、現在の時刻……真夜中の1時を指しているし。
広い屋敷に住むのは私と、極端に幼いメイドが一人だけなのだから。
そんな屋敷が騒がしいはずもない。
「…………はあ」
今日一日は書類の処理に使うと決めたとは言え、いくらなんでもやり過ぎたかもしれない。
酷い疲れに溜め息を吐けば、思った以上に重い音が響いた。
もうさすがに休むとするか。
ぐ、と背もたれに力を込めて背筋を伸ばしつつ、凝り固まった目頭を指先で押す。
「……疲れた、な」
昔は数日くらいなら徹夜で働けたのになぁ、なんて。
自分の過ごした年月を思うと、なんとも言えない気持ちに渇いた笑みが漏れた。
よし、もう紅茶でも飲んで寝てしまおう。
ブランデーでも垂らせば、きっと一瞬で眠りにつけるだろうさ。
「よし」
そうと決まればさっさと寝てしまおう。
私は書斎用にと作らせた大きなデスクの端に置いてある、小さな鈴に手を伸ばす。
今は亡き……もとい、隠居したソフィーが築き上げた我が屋敷の伝統である。
鈴を鳴らせば、メイドが来る。
ちりんちりん、と少し耳障りな音を響かせるそれには、ソフィーが居た頃には無かった真っ赤なリボンが、いびつな形で結ばれている。
アップルティーを呼ぶ、アップル色のリボンです、と。
子供らしい無邪気な笑顔を浮かべた幼いメイドが、一生懸命に結んでいた。
ああ、私も年をとったものだ。
「ッ、すいません遅くなりました!」
「アップルティー、ノックを忘れてる」
「きぁあああ!すいませんすいません!」
ばん、と勢い良く開いた扉。
そこから勢い良く飛び出して来た濁った紅茶色の髪をした幼いメイドは、慌てるとすぐにノックを忘れる。
それを呆れ半分、微笑ましさ半分くらいの気持ちで咎めれば、幼い少女は再び大慌てでドアの向こうへと消えて行った。
ぱたん、と閉まったドア。
……こんこん。
律儀にノックからやり直す少女に小さく笑いつつ、私は「どうぞ」とドアの向こうに声をかけた。
「申し訳ありません、お待たせいたしました、お呼びでしょうか?」
「ああ。遅くにすまない。もう寝るから紅茶を煎れてくれるか」
「アップルティーですか!?」
「いや、今日はディンブラを煎れてくれ。ブランデーを入れたいんだ」
「かしこまりました」
さすが、孤児院でアップルティーという名前を与えられたほどだ。
アップルティーは、異様なほどにアップルティーを煎れたがる。
一瞬嬉しそうに顔を上げた少女は、それでもさすがに立派な労働者だった。
表向きには納得したようにペこりと頭を下げ、アップルティーは書斎から出て行った。
ああ、そう言えば。
彼女がこの屋敷に来てから約数日、アップルティー以外の紅茶を注文したのは初めてのことだった。
それくらいに、彼女の煎れるアップルティーは美味いのである。
「……お待たせしました」
しばらくして、彼女は再び書斎のドアの前へと戻ってきた。
ドアを開けはしないが、ノックも無し。
声だけを掛けてくるパターンは珍しいな、なんて思いながら「どうぞ」と声を掛ける。