短編小説2
□乙原ノ虎児
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「にいさま」
なんだい、お里。
「にいさま、にいさま」
そんなに泣くんじゃないよ。
さすがの私にも、こればかりはどうすることも出来ないんだから。
「どうか、にいさま、後生です、」
なんだい、お里。
「どうかどうか、最後に、いちどだけ、」
……すまないね、お里。
それは聞けないお願いだ。
お前は可愛い妹だから。
「にいさま……っ、」
すまない、お里。
私はね。
お前より自分の地位が愛しいんだ。
『乙原ノ虎児』
乙原、という色街があるらしい。
吉原や島原なんかと違って、地図に載っていないくらいに小さな色街らしいが、地図に載っていないのは規模だけの問題ではないだろう。
どうやらそこは、女が男を買う街だとか。
ふざけた風習だ。
女が男を金で買うなどと。
飢饉だとか風紀の取り締まりだとか、知りもしないが昨今の色街は数々の規制を負わされてると聞く。
そんな世の中だというのに、乙原は野放しときてるらしい。
天保のこの世、幕府さまはなにをしてらっしゃるのか。
まぁ、御上が黙っているのだから何かしらの利益と事情があるのだろう。
はは、きな臭くて仕方ないな。
私には関係ないが。
私は私に与えられた地位を守るだけだ。
父の位を継ぎ、家を守り、母の望む娘を嫁に迎えれば良い。
そして子を成し、次に繋ぐ。
それだけだ。
それ以下も以上も望みはしない。
そのためにここまで来たのだから。
「吉宗様」
道案内のために連れて来た従者に名を呼ばれ、はっと我に返る。
そうだ、なんのためにここまで来たんだ。
心に迷いなどない。
「なんだ」
「見えて参りました、あれが乙原にございます」
「…………ほう、」
従者の指差す方向、我々の進む真っ直ぐ先には小さな門。
ぐるりと周りを囲む塀はどこかおどろおどろしい。
さすがだな。
色街はどこも怨念じみている。
「お里」
「……はい」
門を見つめたままに名を呼べば、少し遅れて返って来る細い声。
それは、私の隣を進む篤籠の中から聞こえてくる。
「もうすぐ着く。疲れたか?」
「……いいえ、にいさま」
篤籠と呼ぶには豪勢過ぎるそれ。
中には、私の妹が乗せられている。
可愛いくて哀れで、そして。
とんでもなく愚かな私の妹が。
「もうすぐだ、頑張りなさい」
もう返事は聞こえない。
代わりに聞こえて来るのは、啜り泣くような息遣いのみ。
愚かな女だ。
私なんかを好きだと言ったばかりに、あんな街の男女郎に汚される。
こんな私なんかを、な。
ぼんやりとしたままでも馬は進む。
小さく見えていた乙原の大門は近付いても小さく、番所や大門の見張りもなぜか小柄に見えた。
……いや、違う。
「…………へぇ」
思わず声が漏れた。
……噂に聞くよりも、ここは面白い場所のようだ。
「街の中では帯刀を禁じております故、ここで刀と脇差しをお預かりいたします」
そう言う見張りの声は高い。
細い腰、それに似合わない装束。
「貴様!この方を知っての物言いか!」
「構わん。女、聢と受け取れよ」
食ってかかる従者を制し、刀を脇から抜く。
それを見張りの者に差し出せば、そいつは細い腕でそれを抱え込むようにして受け取った。
重いか?
そうだろうな。
その腕ではな。
「……面白いじゃないか」
番所や大門の見張りも、花を売り歩く者も、抱えの者と思しき装束を纏う者も。
この街で働く者達は、皆、女だった。
男の装束を纏う女達。
なるほど、地図に乗せられぬわけだ。
「これより先は男人の立ち入りを禁じております」
見張りの女は従者と篤籠持ちを一瞥すると、私に向かってそう言った。
強い眼差し。
それにたじろぐ従者なんかより、どうやらここの女は芯が通っているらしい。
剣術体術がただのお習い事になってしまったこのご時世、こういう人間を門下に欲しいものだ。
皮肉な笑いが漏れるのも仕方がないというものだろう。
「私はそれの兄だ。花車と話は付けてある、私は待たせてもらうぞ」
「存じております」
大門で馬を従者に預け、これまでの道のりの倍の数で篤籠を担ぐ女達に案内されながら、私はその異様な街の中を進む。
見渡す限り、女、女、女。
たまに男が居たかと思えば、まるで陰間のような少年や、女の着物を纏った役者のような男ばかりだ。
それに反し、女は前掛け褌姿で恥も惜し気もなく肌を晒している。
「…………異様だな」
「それでも百五十年続いております」
「ほぅ、立派なものだ」
「その百五十年でも旦那が初めてらしいですよ、客として男がこの道を歩くのは」
「……どうりでな」
どうりでじろじろと見られるわけだ。