短編小説2

□さあ、悪夢よ交代だ。
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昨日、ママンが死んだ。

ムルソーは殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と答えたという。
























『さあ、悪夢よ交代だ。』























昔から繰り返し見る悪夢がある。

始まりはいつも実家の階段からだ。
昔住んでいた、玄関の吹き抜けが自慢の白い壁紙の家。

夢のなかの僕は、いつも緑色のトレーナーを着ている。
お気に入りだったそれはよく夢に出てきては、僕を当時の感覚へと誘う。

緑色のトレーナーを着た僕は、階段の真ん中でぼんやりと2階を見つめている。

2階の踊り場には僕の弟が居て、じっとそのまんまるの瞳で僕を見下ろす。

弟の服は食べこぼしや唾液で酷く汚れているけれど、それはいつものことだから僕も気にしない。

弟は僕をじっと見つめる。

彼がなにかを言うわけでもないが、僕は彼の瞳に誘われて階段を一段上がる。

ふわりとした浮遊感。

足の裏には冷たい階段の感覚。
階段を上がっているはずなのに、どこか落ちて行くような浮遊感。

階段を上がる僕を、弟はただただじっと見つめている。

なにか言えよ、と思うがそれもおかしい話だと気付く。

彼はくちをきけなかったはずだから。

一段、そしてまた一段。
僕は階段を上がって行く。

そして、最後の一段。

2階の踊り場へと上がろうとした所で、いつも僕は弟に肩を掴まれるのだ。

弟を見上げる。

まんまるの瞳。
汚れた服。

僕は彼を可愛がっていたけれど、本当は誰よりも彼を憎んでいた。
それを思い出した瞬間に、彼は掴んだままの僕の肩を階段の下へと押すのである。

どん。

階段を上がって来た時とは比べものにならない浮遊感。

内臓が浮く感覚。
ジェットコースターで感じる、軽い吐き気を伴うあれだ。

僕は背中から1階へと落ちて行く。

ふわり、ふわり。

白い壁紙。自慢の吹き抜け。
そこを落ちて行く僕。

ゆっくりゆっくり、スローモーションで遠くなって行く弟は、そんな僕をそのまんまるの瞳で見つめ続ける。

笑うわけでも、喜ぶわけでもなく。

ただ、彼は僕を見下ろす。

その口元が僅かに動くのを、僕もただ落ちながら見上げる。
彼は落ちて行く僕になにかを言っているのだ。

そこでいつも、僕はこれが悪い夢なのだと気付く。

馬鹿げた夢だ。

なぜならば、彼が口をきけるはずなど無いのだから。

そうして目覚めれば、僕はいつも例外無く汗だくで、時には隣で眠る女性に「うなされていた」と揺すり起こされるのだ。

いつもいつも同じ夢。

その先を見たこともなければ、階段の一段目から夢が始まることもない。

いつも階段の途中から始まり、最後の一段を上がり切る前に彼の手によって僕は背中から下へと落ちて行く。

繰り返し繰り返し、何度も何度も。

汗だくで目覚めては、水を飲みに行き、時にはもう一度寝付いてからまたその悪夢を見ることもある。

昔はその夢を見るたびに両親の寝室へと潜り込んでいた。

どんな夢を見たかは言えなかったけれど。

だってそうだろう?
大事にされている弟に階段から落とされる夢を見ました、なんて言えるわけが無いし、弟は僕に懐いていたからそんなことをするはずも無いのだから。

だから僕は、いつも両親に「怖い夢を見た」とだけ言って泣きつくのだ。

怖い夢だ。

昔はその夢を見た日は一日中震えていた。

死ぬのが怖かった。

そう、昔は死ぬのが怖かったのだ。

いつからだろうか。

死ぬ以上に恐ろしいことが、この世にはあると知ったのは。
それは毎日自分に付き纏っているのだと知ったのは。

“死”以上にそれは僕の近くにあって、“死“以上に僕を苦しめた。

だから。

僕はここに立っているのだ。

「……すー、はー、」

大きく深呼吸。
下の道路を行き交う、排気ガスを撒き散らす犯人のせいで空気はクソマズイ。

それでも大きく深呼吸。

目の前には大きなビル、ビル、ビル。
その間から顔を出すオレンジ色の夕日は、薄緑色のシャツを着た僕を照らす。

まぶしい。

息の詰まる景色だ。

下を見下ろせば、大道路を行き交う車と、ずいぶん小さく見える人間の頭。
機械的な動きをする世界は、僕の目には不気味なものにしか映らない。

見たくもない世界に僕は背を向ける。

カシャン。

掴んでいたフェンスが軽い音を立てた。

僕はぼんやりと考える。

繰り返し見たあの夢で、今は亡き彼はなんと言っていたのかと。
さようなら?いや、そんな言葉じゃない。

僕の背中を照らす夕日。

銀色のフェンスに反射したそれが眩しくて、僕は目をつむる。

ふわりとした浮遊感。

悪夢と同じ。

下へと僕は落ちて行く。
ゆっくりと目を開いたけれど、そこにあの日僕が殺した彼は居ない。

見えるのは夕日に照らされたフェンスだけだ。

なんてことだ、あの夢よりずっと悪いじゃないか。

ふわり、ふわり。

僕はゆっくりと落ちて行く。
夕日が昇って行く。

まぶしい。

彼の唇が動く。

『さあ、』

……あぁ、そうか、あの時、彼は。

「……さあ、」

悪夢よ。


















昨日、ママンが死んだ。
ムルソーは殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と答えたという。

ならば。

幼きあの日、弟を階段から突き落とし。
今度は自らをも殺す僕にも「夕日が眩しかったから」と答えることは許されるだろうか。

さあ、悪夢よ。

「交代だ」

この悪夢を終わりにしよう。

































END.
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