短編小説2
□女神は誰が為に微笑むか
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ヴィイィイイイン、と1500ccのエンジンが限界まで頑張っている音。
父から受け継いだ9年モノのこの車が坂道に音を上げているのを知りながら、それでも私は重いアクセルを踏む。
ヴィイイィィン。
深夜、車の少ない高速道路を走る私の目に映る、赤と黄色の光のコントラスト。
眩しいそれに目をしかめていると、隣から「ふあ」とあくびの声がした。
もそり。助手席の塊が動く。
「…………すいません、寝てました」
「良いよ、寝てな」
「……のど、渇いた」
寝ぼけたままの声に小さく笑いながらペットボトルを渡してやれば、こく、と中身をほんの少しだけ嚥下する音が聞こえる。
満足に水すら飲めない彼は可哀相だけれど、それも明日で終わり。
「ビーフストロガノフ食べたいです……」
「うん、また明日ね」
「ベーコンと玉ねぎのキッシュも食べたいし、クレームブリュレも食べたい……」
「うん、また明日ね」
「パプリカ風味煮も食べたいです」
「なんかメニューがいちいちオシャレでムカつくわ」
このブルジョワが。
そう吐き捨てるように言いながらエンジンを踏む。
ヴィイイイイン!
隣でくすくすと笑う声が聞こえた。
「憂奈さん」
「ん?」
「結婚してください」
はっきりと聞こえた求婚のセリフ。
人生に大きな変化をもたらすであろうそれも、すでに10回目を越えていることを考えればいま一つ有り難みに欠けるというもので。
へら、と笑いながら私はアクセルを踏んだ。
「うん、それはまた今度ね」
『女神は誰が為に微笑むか』
「また今度、って……」
「間違ったことは言ってないでしょ」
「ひどい。僕の渾身のストレートを」
「かわしてみた」
「ひどい!」
そう、助手席でひどいひどいと騒ぎ立てている青年の名前は赤月スナオ。
今年成人したばかりの彼は、その、眼鏡で敬語でさっぱりとした黒髪の姿からは想像出来ないけれど、私の実家が経営するボクシングジムのホープ。
どういう経緯で某食品会社の社長子息である彼がうちのジムに入ったかは知らないけれど、14才でトレーニングを開始した時から彼には才能があった。
運動能力、導体視力、瞬発力、センス、そして勝負強さと精神力。
プロボクサーになるために産まれて来た男、だなんて雑誌で取り上げられる彼だけれど、外見はまるでその逆。
見るからに文化系なその姿に威厳は無い。
ただ、この子はリングに上がると化ける。
そして、ゴングが鳴った瞬間、別人になることを私は知っている。
だから、ここまでやって来れた。
「……お腹空きました」
「でもお腹は鳴らなくなったじゃん」
「胃が動かないほどなんにも入ってないってことですよ。空腹過ぎて逆に胃が重い」
彼がうちのジムに入ったのが14才の時。
そして、彼がアマチュアボクシングで彼の父親の会社の代表としてリングに上がり始めたのが15才の時。
中学校を卒業した彼は、とりあえずは高校に入ったものの、親の意思とジムの意思、そしてなにより本人の意志を持って、学業よりボクシングを取って高校を中退した。
それからアマチュアで18才まで戦った後、プロテストに一発合格でプロ入り。
それからスーパーバンタム級でタイトルを取り、数々の防衛戦を繰り返して地道に世界ランクを上げて行った。
そして、ついに。
明日行われる計測をクリアして、明後日の試合で勝てば、世界ランク12位に入れる。
そしたら、世界チャンピオンはもう夢物語なんかじゃない。
「だから我慢してよ!計測なんかで失格にされたくないでしょう!?」
「でもお腹空きましたよー!」
「じゃあ寝てなさいよ!」
「いやですよ!せっかくのドライブデートなのに!!」
……そして、そんな彼と私は付き合っている。
なぜか。
なんでかよく分からないけど。
あれ?なんでだっけ?
「僕が告白したからですね」
「そうでしたね。15才の時でしたね」
「その時、憂奈さんは20歳でした」
「黙れ小僧」
そうだ、高校を卒業してそのままジムの手伝いに入った私は当時20歳で、元々あまりにもジムに不釣り合いなスナオのことは気に掛けてて。
好きだと言われてすんなり受け入れたけど、よく考えたらおかしいでしょ。
なんでいまだに私なんかと付き合ってんの、あんた。
こんな、女の下り坂に差し掛かってる私なんかとさぁ……。
「そもそもさ、なんであんたジムなんか通おうと思ったの?自分からボクシングやりたいって言わなさそうな性格してるのに」
ハンドルをきりながらそう問い掛ければ、助手席の日本チャンプは「うーん」と小さく唸った。