短編小説4
□迷子の子猫
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僕の手を離さないで。
どこにも、行かないで。
母に言えなかった言葉が。
未だ、私の胸に影を落としている。
『迷子の子猫』
アップルティーがうちに来て、早数か月。
彼女はすっかりこの屋敷に馴染んでいた。
それはもう、長年この屋敷にいたソフィーを凌ぐほどに。
「ローガン様、こんなところで寝ないでください!お風邪を召されますよ」
「大丈夫だよ……」
「またそんなことおっしゃって!ベッドまで歩くだけなんですから!ほら!」
そう、微睡む意識に乱入してきた高い声。
書斎のソファーで横になっていた私へと掛けられたそれに重い瞼を開ければ、眩しい視界のなか、濁った紅茶色の髪が目に入った。
「ほら、肩をお貸ししますから!」
そう言って、とてもじゃないが頼りになりそうにない細い肩に私の手を導く幼いメイド。
この屋敷に来たばかりの頃は私と目を合わせることもできなかったアップルティーは、すっかり板についたメイド服を身に纏い、少し伸びた紅茶色の髪を揺らした。
「早くベッドルームへ行ってください!明日も早いんでしょう!?」
「そうだよ……だからもう寝かせてくれ」
「こんな固くて狭いソファーで疲れが取れるものですか!ご自分のお年を考えてください!」
「……お前、本当にソフィーに似てきたな」
「ありがとうございます!!」
褒めたわけじゃないんだが。
その言葉を飲み込んだ分だけ眉間にシワが寄るのを感じながら、私はソファーから起き上がる。
「アップルティー、シードルか白ワインを冷やしてくれ。少し喉が渇いた」
「ベッドルームで既にお待ちですよ」
「……なるほど。じゃあ、急ぐとするか。ご婦人をベッドで待たせるわけにはいかないからな」
そんな冗談を言えるくらいに。
この屋敷に、私に、馴染んだアップルティーは、寝室へと向かう私の後をついてくる。
小さな靴をとてとてと鳴らして歩く姿は、やはり愛らしかった。
……私もほだされ過ぎだな、本当に。
子供は嫌いなはずなんだが。
「ローガン様、おみ足を」
「ああ、いい……靴くらい自分で、」
「わたしの仕事ですから」
子供ながらに仕事にプライドを持つアップルティーは迷いもなく、ベッドに腰掛ける私の靴紐を解く。
いつからだっただろうか。
こうして、少女の膝に靴底を乗せることに居心地の悪さを感じ始めたのは。
「はい、左足をどうぞ」
「……こうしてると、なんだか介護されてるみたいでな」
「ふふ、数十年後にはそうなります」
「……はは。数十年後もまだここに居る気か?嫁にも行かずに?」
「もちろんです。約束したじゃないですか、わたしはここでずっとローガン様にお仕えしますって……もしかして、忘れちゃったんですか?」
「…………」
忘れたわけではなかった。
ただ、その言葉を信じられるほど、私は若くもなければ善人でもない。
何も答えない私を不信がるでもなく、幼いメイドはその小さな手で私のベストを脱がし始めた。
その拙い手つきを見ていると、なんとも言えない気持ちになる。
……子供は、嫌いなはずなんだが。
「アップルティー」
「はい?」
「明日、私は街に出る」
「はい、存じております。例の仕立て屋さんの所ですね?馬車の手配もしました」
「ああ。だから……明日、お前は好きにしたら良い」
「……好き、に?」
何を言われているのか分からないらしい。
アップルティーは私のブラウスのボタンに手をかけたまま、その紅茶色の大きな瞳を揺らめかせた。
「休みを出すと言ってるんだ」
「……お休みは、いただいてます」
「それとは別にだよ、アップルティー」
普段から働き者な少女への特別休暇。
そのつもりで与えた休みだったが、どうやら少女にとってはあまり良いことではなかったようだ。
戸惑うように揺れる紅茶色が、少しだけ濁りを見せる。
……どうした?
給料の心配をしているなら、無用な杞憂だぞ?
「いえ、そうじゃなくて……」
「……都合が悪いのか?」
「いいえ。ただ……、」
ただ、休みをどう使って良いか、分からないんです。
少し照れたような声で、アップルティーは呟くようにそう言った。
「好きなことをすれば良いだろう?」
「本……は、難しいのは読めませんし」
「服や帽子を見に行くとか」
「……あまり、お店に入るのが得意じゃなくって」
そう言って、今度は困ったように笑う。
そんな笑顔を見て、私の脳裏にイヤな考えが浮かんだ。
いや、そんな、まさかだが……。
「アップルティー」
「はい」
「お前、普段の休みは何をしている?」
「……特には、何も」
「…………街へ出たことは?」
「一度だけあります。セバスチャンさんに花を買って来るように言われた時に」
「…………」
そのまさかだった。
この少女は。
まだ遊びたい盛りであろうこの12才の少女は、街に出たことがないのだ。
自分の稼いだ金を服や靴や帽子やリボンに替えることもせず、好きな菓子や流行りの傘に見向きもせず。
……私は、子供が嫌いだ。
やかましいばかりで、すぐ泣いて、疑問ばかり投げかけてくる不条理な生き物。
だが。
「アップルティー」
「はい、シードルをお注ぎしますね」
「明日、私に着いて来い」
「…………はい?」
だが。
アップルティーを連れ出さずにはいられなかった。
紅茶色の髪に合うリボン。
きっと白が映える健康的な肌。
編み上げの華奢なブーツだって似合うだろう。
それらを与えてやりたくて仕方なくなったんだ。
仕方ないだろう。