短編小説1
□SとMの序章
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そんな大袈裟な、と誰しもが思うだろうけど、私にとっては大きなことなのである。
だって、セツ兄ちゃん怖いし。
スカートのことだって、そうだ。
スカートを短くしたらさらわれる、とか。
スカートを短くしたら変質者に襲われる、とか。
スカートを短くしたら痴漢にあう、とか。
セツ兄ちゃんがそんな風に脅すから、そんなはずないって分かってても、従うしかなかったんだ。
セツ兄ちゃんは過保護過ぎるよ。
私はそんなに子供じゃないし、大人としての魅力も無いんだから。
そんな心配いらないのに。
「…………セツ兄ちゃんのばか」
呟いた言葉は、『間も無く電車が参ります、危険ですので、黄色い線までお下がり下さい』という、お決まりのアナウンスに紛れて消え去った。
電車が巻き起こす風。
はためくスカート。
あぁ、なんて爽やかな朝なんだろう。
◇◇◇
なんて、そんなことを思えたのは電車に乗ってからの数分間だけだった。
電車に乗るまでの不快指数は、いつもの半分以下だったのに。
今現在の不快指数は、とりあえずいつもの数百倍くらいだ。
というか、気持ち悪い。
どうしよう。
「…………ッ」
いつもと同じ時間。
いつもと同じ、満員電車。
べつにそれは仕方の無いことだと割り切っている。
この時間帯はちょうどサラリーマンさん達の出勤時間だし。
私の通う学校は、オフィス街の一つ手前の駅の近くにあるわけだし。
それは仕方無い。
それはべつに問題じゃない。
問題なのは。
「ッ、……ぅ、」
誰だか知らないけれど、誰かが私のお尻を撫で回しているという、今のこの信じがたい状態である。
どうして。
意味が分からない。
気持ち悪い。
「……ッ、は、ぁ」
あまりのことに息が詰まって、満員電車の薄い空気さえも上手く吸えなくなってしまう。
ぎゅうぎゅう詰めの満員電車じゃ、逃げるどころか、身動きさえ満足にとれなくて。
なんで。
今までこんなこと無かったのに。
助けて。
助けて、助けて、助けて。
気持ち悪いのに、助けて欲しいのに、声が出ない。
誰にも言えない。
だって。
痴漢にあうなんて恥ずかしい。
もし、間違いだったら?
自意識過剰だって、みんなに思われたら?
怖い。
恥ずかしい。
気持ち悪い。
誰にも知られなくない。
でも。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
「ハァ、ハァ、ハァ、」
耳元で聞こえる、湿った荒い息遣い。
「ひッ、……ッ」
ゾッとした。
涙が出た。
きもちわるい。
きもちわるい。
きもちわるい。
たすけて。
だれでもいいから、おねがい。
たすけて。
「ふ、ぅ、……ッ、ぅ、」
気持ち悪さに、涙が滲んだ。
恐怖のあまりに、涙が零れた。
自分の情けなさに、涙が伝った。
でも、こんな朝の満員電車に乗っている人の中で、そんな私に気付く人なんて一人もいない。
気付かないでほしいとさえ、思った。
だって。
こんなの情けない。
セツ兄ちゃんの言い付けを破って。
一人浮かれて。
セツ兄ちゃんの忠告通りになって。
それなのに。
自分が悪いのに。
セツ兄ちゃんに助けて欲しいなんて思ってる。
馬鹿な私。
愚かな私。
セツ兄ちゃんは助けてなんてくれないよ。
でも。
「ッ、……ぇ、ッく」
でも。
「めん、さぃ、ッ、……ッ」
ごめんなさい。
「ッな、さ、…ご、めッ」
ごめんなさい。
いいつけやぶって、ごめんなさい。
もうしないから。
もうぜったい、しないから。
だから。
「っけて、ッ、……す、けてッ」
たすけて。
おねがい。
「せつ、にぃ……ッ、ちゃ、」
ガタン。
ガタン。
ガタン。
ガタン。
「……随分と、楽しそうなことなさってますね」
電車の揺れる音に混じって聞こえた、柔らかくて、優しい声。
でも。
確実な怒り滲ませた、その声。
そして。
「ぐ、う、ッ……ッ!」
そんな呻き声と同時に引いて行った、痴漢の手。
「……へ?……え、ッ?」
なにがどうなったのかサッパリ分からなくて、とっさに振り向けば、そこには助けを求めて名を呼んだ、その人が。
「セツ、兄ちゃ、」
「……めーちゃん、こっちおいで」
セツ兄ちゃんは痴漢行為を働いたおじさんを見つめたままに、私の腕を掴んで引き寄せた。
その腕に促されるまま、私はセツ兄ちゃんの後ろに隠れる。
「……なにを、なさってたんです?」
「ぐぁッ、うぅ、」
笑顔のセツ兄ちゃん。
顔を歪ませて呻く、痴漢のおじさん。
よく見れば、セツ兄ちゃんが痴漢のおじさんの腕を捻り上げていた。
腕が変な方向に曲がっている。
……痛そうだ。
「もう一度、聞きます」
どこまでも笑顔を崩さない、セツ兄ちゃん。
でも、その目はちっとも笑っていない。