短編小説1

□月にむら雲、花に風
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「お初にお目にかかります、影時に御座います。今日よりちよ様付きの忍となりました、どうぞよしなに」

そう言って手を握ってくれたあたたかさを、今でも覚えている。

「寂しい時は、いつでもこれを御鳴らし下さい。影時はどこへでも参ります」

お母様が死んだ夜、そう言って渡してくれた小さな鈴は、鳴らしたことは無いけれど、今でも懐にしまってある。

「影時はいつまでも、ちよ様のおそばに居ります」

そう言ってくれたその言葉は、嘘だったの?




明日、私は江戸へと嫁ぐ。

















『月にむら雲、花に風』

















丸窓から夜空を見上げれば、見事なまでの満月が浮かんでいた。

……どうりで明るいわけだ。
これだけ明るければ、ろうそくの光なんてあっても無くても同じだろう。

そう思って、部屋に灯してあったろうそくを吹き消した。

こんなところを女中頭に見られたら、お行儀が悪いと小突き回されるだろうが、今はその心配も無い。
なぜなら、今この部屋には私以外誰も居ないから。

みんなには暇を出した。

いつもはそんな申し出など口に出す前に却下されるのだろうけど、今日は特別だ。

明日、私は江戸へと嫁ぐ。

顔も知らない殿方のもとへと。

お父様から名前やお話は聞いている。
若くして人望を集める御方らしい。

……どうでもいい、と言ったら懸命にこの縁談を結んでくれたお父様が泣くだろうから言わないけど。

……江戸は、それなり栄えた街と聞く。
まぁ、我が京にかなうはずが無いと信じているけれど。

それより、なにより。

江戸には影時が居ない。

「…………かげとき?」

居ないはずが無いと思いつつも疑問系で名を呼んでしまうのは、私の最後の照れ隠しだ。

「呼んだ?」

ひらりと窓から入り込んで来る、影のようなその姿。
……今日は屋根の上に居たのね。

「……呼んだ」
「なんでござんしょ?」
「…………べつに、」

なんもおへんけど、と目を逸らせば、音も無く近付いて来る。
気配さえ消しているけれど、影時の行動ならなんとなく分かるから。

「……忍みたいやね」
「忍ですから」
「…………屋根の上に居ったん?」
「この時期の屋根裏は鼠が占拠してンだよねぇ、かじられるのも嫌だしさ」

そう言ってケラケラと笑う影時は、とてもじゃないけど忍には見えない。
私の知ってる忍は皆しかめっ面してるから。

いや、影時も最初は無表情に近かったな。
私に対しても敬語だったはずだ。

いつからこんなになったんだっけ?

思い出せないや。

「……明日、江戸へ、」
「…………ちよ様」
「みんなともお別れやねぇ」

嫁ぎ先は一つだけ条件を出して来た。

それは、京の物は何一つ持ち込んではならない、というもので。
女中や髪結いどころか、嫁入り道具の一つも駄目らしい。

普通なら有り得ない条件だけれど、衰退気味の我が家に異見なんて出せるわけが無くて。

だから。

京の街とも。
慣れ親しんだ女中達とも。

影時、とも。

今夜でお別れ。

「……影時」
「ん?」
「…………影時、あのね」

離れたくない。
離れたくないよ、影時。

「お父様がね、一つ……一つだけ、やったら、京のもんを持って行ってもええて、言うてはって、」

しどろもどろな言い方になってしまったけれど、この話は本当。
あまりに悲しむ私を見かねて、お父様がそう言ってくれた。

だから。

「せやから、うち、影時を連れて、」
「……ちよ様」
「ね、影時、せやから、」
「だめだよ、ちよ様」

どんなに言っても影時は視線を逸らしたまま首を振るだけで、私の方を見ようともしない。

その姿に、最後の希望まで無くなったのだと私は絶望した。
ぎりぎりと胸の奥が軋む。

鼻がつんとしたと思ったら、目頭が熱くなって。
気付いたら、頬を涙が伝っていた。

「なんで、……かげとき」
「…………」
「かげときッ、かげときぃッ」

どんなに私が泣いたって、すがりついたって、影時は目を伏せたままで。

なんで?
どうして?

その思いばかりが浮かんでは消える。

涙は止まる所を知らなくて。
明かりは無くともこの満月、影時に全て見えてしまっているだろうに。
みっともない、そう思うのに、後から後から溢れ出して来る。

「ねぇ、かげときッ、なんでッ?」
「…………」
「なんでなんッ、……ひッ、く、……ぅ、う……ッね、ぇ?なんでッ!?なぁ、かげときッ」
「……ッ、恐れながら申し上げますが」

突然顔を上げてそう言った影時の瞳には、どこか決意のようなものがちらついている気がした。


 
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