短編小説1
□月にむら雲、花に風
2ページ/5ページ
「江戸のお館様は人望もあつく、人情味溢れる御方です。ちよ様が不安になられることは御座いません」
「……かげとき?」
「忍が居なければ不安だと言うのであれば、あちらでそう言われてみてはいかがです?すぐに俺なんかより優秀な忍が、」
「かげときッ!」
違う。
聞きたいのはそんな言葉なんかじゃない。
そんな、主従関係を確認させるような言葉を聞きたいわけじゃないの。
ねぇ、影時。
なにを怯えているの、あなたらしくもない。
「……かげとき」
「…………」
「ッ、かげ、ときッ……」
「…………ッ、おれ、だって!!」
ぐいっと私の肩を掴んだ影時は、真っ直ぐに私の方を見つめて来る。
月を背にした影時の表情は見えないけれど、きっと悲しみに歪んでいるのだと、そう思えるほどにその声は悲痛だった。
「俺だってッ……江戸の御方に妙な噂が一つでもあったら、あんたをさらって逃げるくらいのつもりでいたさッ!!でもッ、そんな噂一つだって無いんだッ、非の打ち所が無いくらいに完璧なんだよッ!!だからッ、」
「せやからッ、うちと一緒に江戸に、」
「人のもんになるあんたをそばで見てろってのか?俺じゃない誰かに愛されて、子供を産んで、そんなあんたを見てろってのか!?……勘弁してくれよッ」
そう言って影時はぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
なによ、それ。
その言いぐさじゃ、まるで……。
「……影時、逃げよう?」
「…………は?」
「うちを連れて逃げて。影時やったら出来るやろ?なぁ、」
「……いいかげんにして下さいよ、まともに外へ出たことも無いくせに」
「綺麗な着物も、高価なかんざしも要らへん。女中でも下働きでも、なんでも覚えるから、だから。……影時が居るなら、それだけでええの」
「………………」
口から出任せを言ったわけじゃない。
ずっとずっと思ってたことだ。
それをきっぱりと言い切った私の声が途切れれば、部屋には何の音も無くなってしまった。
影時は何も言わない。
私も何も言わない。
先に口を開いたのは、影時だった。
「……現実は、そんなに甘くないよ」
「分かってる」
「幻想を抱くのはやめましょう、俺もあんたももう子供じゃない」
「子供やないから心に嘘がつけへんの。うちは、影時のこと、」
「しっ……」
唇に人差し指を押し当てられて、言葉を止められた。
月明かりに照らされた影時は、酷く悲しそうな顔をしている。
……こんなに表情を変える忍なんて、影時のほかに居ないだろうな。
「…………だめだよ、ちよ様」
「……なんで?」
「それ以上言わないで。……俺もあんたも、苦しくなるだけだから」
そうかな?
ほんとうにそうなのかな?
……私は、違うよ。
「うちは、言葉がほしい」
「…………」
「思い出が、ほしい」
きっと、それだけで生きて行けるから。
強く生きて、行けるから。
だから。
ねぇ、影時。
「うちのこと、すき?」
じっと見上げた影時の顔は、やっぱり月光のせいであんまり見えなくて。
でも、私の頬を撫でた手は、昔のまんま、あたたかかった。
「……すきだよ」
「ほんまに?」
「あぁ、自分でもびっくりするくらいにね。あーんなにちっちゃかったくせに、こーんな綺麗になっちゃって」
頬を撫でる手がくすぐったくて肩をすくめたら、ちゅっと額に口付けられる。
まさかそんなことされるなんて思ってもみなかったから、びっくりして声も出なかった。
でも、だんだん頭が理解していって……かぁっと頬が染まっていくのが分かる。
「な、なんッ……」
「散々煽ってくれたお返し。あーぁ、やっちゃったー」
「はッ、破廉恥なッ!」
「かげときかげときって艶っぽい声で呼んだのはちよ様でしょー?責任取っていただいたまでだよ」
普段の調子を取り戻した私達は、くだらない話をし続けた。
言葉を止めてしまえば朝が来るような気がして、まるでそれに怯えているかのように、話し続けた。
会ってから今までの、約10年間の話を。
「どんどん綺麗になってくから焦ったよ、ほんとに」
そう言って笑う影時の話を聞いていると、どうやら私達は随分前から想い合っていたようだ。
だって、私は初めて会った時から影時のことがすきだったのだから。
でも、明日、私は江戸へ嫁ぐ。
…………あぁ、うつしよというのは本当に上手く行かないものだわ。