短編小説1
□闇夜に烏、雪に鷺
2ページ/5ページ
館から出ることを許されていない奥方様は、一日のほとんどを御自室で過ごされる。
私はぴったりとそれに寄り添った。
奥方様は私を弟のようだと言って気に掛けて下さって。
髪を結わって下さったり、陽向で共にひなたぼっこをしようと誘って下さったり……袴を繕って下さったこともあった。
とても主と忍とは思えぬ関係に疑問を覚えなかったと言ったら嘘になる。
でも。
私はその関係を本気で終わらせようとしたことが一度もない。
なぜだろうか……。
自分でも分からないのだ。
こんなこと忍として許されない。
本来の仕事を思い出せ。
ぬるま湯に慣れるな、仕事以外に現を抜かすな、感情など消してしまえ。
そう、思うのに。
そう、教えられたはずなのに。
なぜ、だろうか……。
あの人のそばは、酷く心地が良い。
あの人の柔らかい笑顔が。
あの人のあたたかい声が。
私を、腑抜けにする。
「ッ、…………居ない、」
長い思案に終止符を打つように小さく呟けば、冷たい夜風に白い息が舞った。
先程から奥方様を探しているのだが、どこにもいらっしゃらない。
自室は当たり前のこと。
馬小屋にも。
屋根裏にも。
どこにも、いらっしゃらない。
「…………いったい、」
どこへ?
上がりそうになる息を抑えつけながら、私は再び屋敷の屋根へと飛び乗った。
足袋越しに感じる瓦は冷たい。
どうして、こんなにも奥方様を探し回っているかと言えば。
……奥方様は、館の女中達に酷く疎まれていて。
旦那様が会合で屋敷を空けるたび、馬小屋や屋根裏に閉じ込められてしまうのだ。
労わしや、我が主。
旦那様は大事にして下さるというのに。
京より参ったというだけで、女中や家臣から無礼を働かれる。
旦那様に言いましょう、何度もそう提案する私に微笑みかながら、奥方様は何度も小さく首を振る。
良いの、そう言って微笑む奥方様。
私の、ちよ様。
私が守って差し上げなければ。
そう決意したはずなのに。
今日もあなたは部屋に居なかった。
旦那様と私が館を空ければ、すぐこれだ。
「…………奥方様?」
ちりん、と小さな音がした気がして。
私はとっさに屋敷を振り返る。
……今のは、奥方様の鈴の音だ。
全てを受け入れ、女中達の虐めにも何も言わない奥方様が、唯一てこでも手離さない鈴の。
薄汚れた組み紐の結ばれた、錆び付いた小さな鈴。
奥方様は、いつもその鈴を懐へと忍ばせておいでで。
……そうだ、一度だけ。
『その鈴はなんですか?』
一度だけ、そう聞いた私に奥方様はどこか寂しげに微笑んで、そして。
『風呼びの鈴、で御座いましょうか』
『……風除けではなく、ですか?』
『ええ、風を呼ぶのです』
そう、おっしゃったんだ。
その、瞳に。
なにか私には分からない、揺れ動く感情を見つけて。
私はそれ以上、なにも言えなくなってしまったんだ。
その、鈴を。
今。
奥方様が鳴らしておられる。
ちりん、……ちりん、……ちりん。
「……奥方様、……奥方様?」
ちりん、ちりん。
小さく小さく、それでも澄み切った冬の空気を震わせる、微かな鈴の音。
ちりん、ちりん、ちりん。
その音を辿りながら屋敷の地下へと続く階段を飛び降りる。
ちりん、……ちりん。
どんどん近くなる鈴の音に、呼吸が荒くなるのも構わず石作りの地下牢を駆け抜けた。
ちりん、ちりん。
「っ……は、はぁっ、」
ねぇ、奥方様。
あなたが呼んでおられるのは。
風ですか?
私ですか?
それとも。
私の知らぬ、誰か、なのですか?