十二国記:楽陽小説

□罠
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巧国安陽県鹿北。
楽俊の家を出て、雁への旅が始まった。

なぜここまでしてくれるのか、という陽子の問いに、楽俊は雁で職が欲しいのだと語った。


「なるほど。」
陽子は皮肉な気持ちで呟いた。その冷たい声の響きに、楽俊はしばらく陽子を見上げていたが、やがて何も言わずにしおしおとうなだれた。

陽子は楽俊が傷ついたと気付いて、取り繕う様に尋ねた。
「じゃあ、楽俊はもう巧には戻らないの?」

「そうだなあ。雁でしばらく働いて小金を稼いで帰って、母ちゃんに田んぼを買ってやれたって、おいら自身は元の穀潰しに戻るだけだ。それより、雁で家が持てるまで頑張って、母ちゃんを呼びよせたいなあ。」

楽俊は空を見上げて、髭をそよがせた。

「だからな、陽子。お前を役人に売って小金をもらったって、仕方ないんだ。例え、おいらと母ちゃんが一生遊んで暮らせると保証されても、何の意味もない。だっておいらは働きたいんだから。おいらは飼い殺しの一生を送る為に、この世に生まれて来た訳じゃないって思いたい。」

「…うん。」

「ほんとはおいら、ずっと前から雁に行きたかったんだ。でも、母ちゃんを一人置いて、国を捨てて出て行く決心が着かなかった。『いつか雁に行けたら、おいらだって…』なんて、腐ってただけさ。そこに陽子が現れた。おいらは陽子を雁に送って行くと言う大義名分を手に入れたんだ。陽子には、感謝してるよ。」
「そんな、大袈裟な。」
「いや、おいらは自分の重たい腰を上げるのに、陽子を利用させてもらってるんだ。路銀の世話なんか安いもんさ。だからな、陽子はもっと胸を張ってろ。尽くされて当然だって、踏ん反り返ってていいんだぞ。」


陽子が立ち止まったので、楽俊は振り向いて「どうした?」と陽子の顔を覗き込もうとした。
陽子は泣きそうな顔を見られまいと必死に顔を逸らせて、足早に楽俊の前を歩いた。


楽俊は、いつ裏切られるかとビクビクしている私を安心させようとして、庇護されている引け目から解き放とうとして、ここまで打ち明けてくれた。自分が差別されている事実を話すのは、決して楽しいことではないだろうに。

なのに私はさっき、楽俊の行動が100%私への好意から出ている訳ではない事に落胆したのだ。
もう他人など信用してはいけないと身に染みているのに、私はまだ他人に無償の好意を求めている。

一体私は、どこまで浅ましい人間なのだろうか。



何日か平穏な旅が続く。
その夜の宿も大部屋だった。陽子に不満はない。信用出来ない他人に囲まれて、不安で苦痛だと思いながらも、一人山中を彷徨った夜を思えば、誰のものとも知れぬ鼾さえ有り難かった。
そして、隣で寝息を立てる楽俊の毛皮の温かさに言い知れぬ安堵を覚えた。


危険だな、と思う。
この宿に妖魔の襲撃がないという保証などない。この部屋の誰が、明日の朝、海客を見つけたと役所に駆け込まないとも限らない。
一瞬の油断も許されない身に、危機感を奪うこの温もりはあまりに危険だ。





うとうとと考えながら、何となく楽俊の柔らかな毛並みに手を伸ばした。

「この男が欲しいかい?」
手に触れた蒼い毛の脂じみた手触りに、陽子は「ひっ」と手を引っ込めた。
蒼猿の首が、楽俊の背から生えていた。

陽子は誰かに気付かれなかったかと、慌てて辺りを見回した。幸い、起き出した者はいない。
蒼猿は陽子の心配を嘲笑い、部屋中を散々跳ね回ってから、外に出て行った。
陽子は誰にも気付かれぬよう、そっと寝床を抜け出した。
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