勇シン短編1

□雪の日の聖バレンタイン
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山奥の村に雪が降る。


朝、眠い目をこすりながら家の扉を開けて、あたり一面が輝くような白銀に埋もれているのを目の当たりにするのが好きだ。

いつもは騒がしい鳥たちも今日は住処で羽根を休めるつもりか、姿ひとつ見せない。さえずりも聞こえない。世界が静謐という名の白い絵の具に、深々と塗り込められている。

それはかりそめの色だ。いつかは必ず溶けて消えてしまう、今いっときだけの美しい色。

ひとしきり雪景色を堪能した後、かつて勇者と呼ばれた若者は羊毛を織り込んだ分厚い防寒着を羽織り、鉄製のシャベルを手にして石造りの家の屋根によじ昇る。

生まれながらの山育ちゆえ、雪の美しさと同時に、その恐ろしさも十分承知している。どっしりと厚みをたたえて屋根に覆いかぶさった雪を迅速にかき下ろしてしまわないと、家族三人住まいの控えめな我が家なんて、いつぺしゃんこに潰れてしまうかわからない。

若者は身軽な動作でぶあつい雪にシャベルを打ち込み、自身の顔の倍ほども大きな雪塊を軽々と肩先まで持ち上げると、無造作に下へと放り投げた。

そのままぜんまいじかけの機械のように、前後に移動しながら同じ動作を何度も繰り返す。すらりと体躯はしなやかで決して大柄ではなかったが、よほど体力があるのか、約一時間後、屋根の上の雪がすっかりかき下ろされてしまうまで、シャベルがすくい上げる雪の量が減ることもなければ、若者が疲れて手を休めることもなかった。息が上がることもなければ、表情ひとつ変えもしなかった。

「お父さん」

桟に雪を載せた階下の窓がガタガタと揺れるとおもむろに開き、そこから整った顔立ちの小さな子供がひょこんと顔を出した。

「雪かき、終わった?」

「ああ」

「じゃあ朝ごはんまでまだ時間があるから、少しだけふたりで雪合戦しようよ。お母さん、まだ寝てるんだ。どうも昨日の夜遅くまで本を読んでたらしくって」

「本?」

「うん。頁を開いたまま両腕にしっかり抱いて、ウサギみたいにすやすや眠ってる。題名はこうだった。

どんな人でも絶対にうまく行く、絶品チョコレートケーキの作り方」

それを聞いて、赤銅色のシャベルに片足を載せ、屋根の上に立っていた若者の緑色の瞳がふっと和んだ。

「そうか。雪が深いと思ったら、もうそんな季節か。早いな」

「お父さん、ぼくお母さんのチョコレートケーキ、食べたくないよ」

子供は幼いおもてに渋い表情を浮かべた。

「お父さんのお友達の蒼い目のお兄ちゃんが聖バレンタインデイってしきたりを教えてくれてから、お母さん、毎年この時期にたくさんチョコレート菓子を作るようになっちゃった。

ものすごく量が多くて、いくら食べてもなくならないし、味だってチョコレートなのに全然甘くない。風邪を引いた時に飲む薬よりずっと苦いんだもの。

去年のあの消し炭みたいなブラウニー、食べ終えた後ぼくらふたりが揃って一体どんな目にあったか、まさかお父さんだって忘れたわけじゃないでしよ」

「そう言うな。お前の母さんは、お前に美味いものを食べさせたくて一生懸命なんだ。

心配しなくても、腹いたならその日のうちにちゃんとおさまっただろ」

「それはそうだけど……」

緑の瞳をした若者は笑いながらシャベルの把手を肩に引っ掛けると、敏捷な仕草でひょいと屋根から飛び降りた。

地面を覆い尽くす雪が発する白々とした光に照り映え、石膏のようになめらかな頬が輝く。

濡れて張りついたおくれ毛から、他の誰も持つことが出来ない彼だけがまとう香気が匂い立つようで、子供はなんとなく気圧されて黙り込んだ。

まだ若い父親は息子のひいき目抜きにしても美しすぎて、時々本当に生きてここに存在しているのかどうか、わからなくなってしまうことがある。自分の親を捕まえてそんなふうに思うだなんて、おかしなことだけれど。

ぼくのお父さんはとても強くて、ひとたび剣を握らせたらまるで踊るように華麗な動きで目の前にいる敵をあっという間にやっつけてしまう。

狩りの腕だって百発百中だし、あまり見せてはくれないけれど、じつは山ひとつくらい簡単にひっくり返しちゃうようなものすごい魔法も使えるらしい。

それになにより、素晴らしい木彫り製品を作る。お父さんの手は魔法の手だ。神様からのプレゼント。小さなナイフ一本握れば、ねえ作ってよとねだったほとんどのものがそこから湧き水のようにあふれ出す。おかげでぼくは物持ちだ。箪笥に机に椅子に木箱、笛に茶碗にスプーンにフォーク。ひとつひとつに葡萄の蔓草のような、渦を巻いたきれいな紋様が彫ってある。

いつか、この模様、くるくるしていてお母さんの髪によく似てるねって言ったら、なぜかお父さんは顔を赤くしてそっぽを向いていたけれど。

ぼくのお父さんはとても強い。毎日の剣の稽古を欠かさないし、よく食べて病気もしない。あまり自分から喋るほうじゃないし、大声で笑ったり騒いだりはしないけど、いつもそこにいて、健やかだ。ぼくとお母さんを守ってくれる。

だけど、どうしてだろう。ぼくにはお父さんが、時々とても脆い壊れ物のように見える。ひとりぼっちの硝子細工の小鳥のように。ちょっとでも目を離したら、遠くの空に溶けて一瞬でここから消えてしまうような気がする。

そう、まるで、この雪みたいに。どうしてそんなふうに考えてしまうんだろう。

ちいさな子供がベッドにもぐって寝物語でそのことを話すと、長く尖がった耳とルビー色の愛らしい目をした彼の母親は、微笑んでこう言ったものだった。

「それは、お父さんの魂に半分だけ見えない翼が生えているせいなの。

望む望まぬにかかわらず、あなたのお父さんはいつも雲の向こうの空の一番高いところに引かれている。

ここへ来い、いつか必ずここへ戻って来いって、絶えず呼ばれ続けているのよ。あなたはお父さんのそばにいる時、その呼び声を心の柔らかい部分で敏感に感じ取っているんじゃないかしら」

「お父さんに、見えない翼が生えているの?絵本の中の天使様みたいに?」

「そう、半分だけね」

「じ、じゃあ、いつかいなくなっちゃうの?お父さんは半分だけ天使様だから、いつも呼ばれているその遠い場所へいつか帰らなくちゃいけないの?ぼくたちを置いて?」

「さあ、どうかしら」

母親はなぜか楽しそうにくすくすと声を立てて笑った。

「お母さんには、難しいことはよくわからないわ。それに未来がどうなるのかなんて、たとえお母さんじゃなくたって誰にもわからないことよ。

わたしにわかるのはこれだけ。あの子……いえ、あなたのお父さんは、あの空の向こうの遠い場所よりも、今わたしたちと共にいるこの世界が大好きなの。


緑芽吹く土に色とりどりの花が咲き、風と鳥が光と遊ぶ豊かなこの世界のことを、あの人はなによりも心から愛しているのよ」






「わっ、ぶ……!」

扉を開けて外へ飛び出したとたん、顔いっぱいに冷たい感触が広がって、子供は悲鳴をあげた。

雪玉を握りしめた父親が、笑いをこらえたような顔でこっちを見ている。エメラルドグリーンの眼差しに、悪戯っ子のような光をたたえている。

こういう時のお父さんは、ほんとに無垢な天使みたいだ。ただし、人々を導く後光差すお偉い大天使様じゃない。ハートの形の矢を手当り次第あたりにばらまいて、素知らぬふりでみんなにこっそりちょっかいを出す、ええと、なんて名前だったか、あの永遠の少年の天使。

だから、大丈夫。悪戯好きの天使は楽しいことが大好きだから、きっと空へは帰らない。半分だけの翼なんか畳んでしまって、この場所でぼくとお母さんといつまでも一緒にいてくれる。

ね、そうだよね、

「お父さぁん」

握って固めた雪玉を父親に向けて投げながら、子供はひな鳥のような甲高い声で叫んだ。

「ぼく、やっぱり頑張って食べることにするよ。お母さんの作るチョコレートケーキ」

「そうか」

「だって、聖バレンタインデイだもん。大好きな人に大好きな気持ちを、チョコレートに乗せて伝える日だ。ぼくはお母さんのことがチョコなんかいくら食べたって足りないくらい大好きだもの」

緑の瞳をした美しい父親は、唇の片方だけで微笑んだ。左耳に嵌めたピアスのブルーサファイアの宝玉が揺れた。

「俺もだ」

「ただ、その……それなりに覚悟ってものは必要だけど。だからふたりで一緒に頑張ろうよね、お父さん」

「ああ。今年こそ、本の題名に期待してみることにしよう」

利き腕をぐんと振りかぶった父親が放った雪玉は鮮やかな弧を描き、またしても子供の顔の真ん中に命中した。子供は飛び上がって抗議した。

「もう!話してるすきにぶつけるなんてずるい!待て、お父さん!」

「俺に勝とうなんて百年早ぇよ」 

子供と父親は笑って瞳を見交わし、走り出した。すっかり雪をかき下ろした屋根に突き出した煙突から、ことこととチョコレートが煮える香りが漂い始め、白銀色の空気を柔らかく彩る。

甘い、いい匂い。目を覚ましたばかりの母親が、いとしいふたりのために朝食作りも忘れてさっそくこしらえ始めたのだ。

とろりととろける琥珀に大好きな気持ちをふんだんに載せた、絶対にうまく行く、はずの絶品チョコレートケーキ。




ーFINー





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