勇シン長編

□あの日出会ったあの勇者
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「母さんの、馬鹿野郎ーーーっ!」


土砂降りの雨の中、喉も枯れよと叫んで飛び出した。

頭や身体を打ちつける雨の冷たさが妙に爽快だったのは、捨てられない荷物のように長い間ため込んで来た鬱屈した感情を、今日こそ思いきりぶつけることが出来たからだ。

(母さんの馬鹿野郎。母さんの馬鹿野郎。馬鹿……!!)

それなのに、いつのまにか泣いていた。

頬を伝い落ちるしずくはひっきりなしに降る雨ではなくなっていた。

「う……、う、ううっ」

両手の甲で必死に顔を拭っても、目からぽろぽろこぼれるものを止めなければ結局同じこと。

ひっくひっくと洩れる嗚咽に、雨よけのコートを羽織って行き過ぎる通行人たちが怪訝そうに振り返る。

ライ・バッグウェルはずずっと鼻を啜り、大通りの石畳を横切って路肩の木の下に潜り込むと、四方から注がれる好奇心のまなざしにひとつひとつ涙交じりの怒りの視線を返した。

なんだよ、見てんじゃねーよ、と怒鳴りつけて憎らしい見物人に石でも放り投げてやりたいが、ここはまだ家から距離が近い。

下手に騒ぎを起こせば世間体ばかり気にする母親にたちまち噂が伝わり、戻った時のお仕置きがいつも以上に厳しくなるだけだ。

戻った時の、お仕置き。

高揚した心にひやりとむなしさが駆け抜けた。

そう、どんなに腹を立てて家を飛び出しても、いつかは帰らなくちゃならない。子供の家出なんて結局数日間の逃避行の疑似体験、必ず帰るという前提のもとに決行される。

まだ小さいから。ひとりでは生きていけないから。誰かの手を借りないと、生きていくことすら出来ないから。

(くそお)

ともすればまたこみあげるしょっぱい涙を唇を噛んでこらえ、ライは瞼をごしごしこすると、前方にそびえる石塔の並ぶ黄土色の城を見上げた。

王立ブランカ城。

雨が昇らせる薄灰色にくもった水煙に、直方体の角ばった輪郭をうっすらとぼやけさせている。

フランドル積みの煉瓦と化粧石で建造されたこの小ぶりな城は、見た目も粗野で城というより要塞に近く、国王一族のおわします白亜の宮殿と呼ぶにはあまりにも野暮ったい。

この王城建築の無粋さこそが、ブランカという周囲を森と山岳に囲まれた田舎国家全体の茫洋とした垢抜けなさを、なにより一口で象徴しているとも言えた。

(お城で少年衛兵を募集してないだろうか。それとも、斥候代わりの使い走りを。

いや、厨房の皿洗いだっていい。住み込みで働かせてもらえるんなら)

もうあんなむかつくばかりの家には二度と帰らない。これからは、自分の人生は自分で切り開いて行く。誰にも文句は言わせない。

俺は俺というひとりの人間であって、親から生まれたからといって親の言うなりにならなきゃいけない義務なんて、どこにもないのだから。

決意を固めて土砂降りの雨の中に飛びだしたとたん、水気をたっぷり吸ったぬかるみに足を取られた。

ぐきっという音がして、足首に激痛が走る。ライのそばかすだらけの濡れた顔が引きつって歪んだ。

「ってえ……!」

突然の痛みに身体が前のめりに折れ、そのまま泥溜まりに頭から突っ込みそうになる。

悲鳴が喉まで出かかったその瞬間、ぎりぎりでそれを押しとどめるように、誰かに力強く腕を掴まれた。

「おい。大丈夫か」

まるで軽い木材を持ち上げるように、腕の力ひとつでひょいと身体を引き戻され、石畳の上に元通りまっすぐ立たされる。

(……誰だ?)

厚手のなめし革のマントを被った人物が腕を離し、頭に乗せたフードの端を指先でめくり上げると、うろんそうにこちらを見下ろしていた。

ライは思わず息を飲んだ。

その人物があまりにも美しかったからだ。

年ははたち前後だろうか、なめらかに尖った頬はまだ若そうに見える。透き通るような緑色の目。石膏のように輝く肌。肩先に垂れた絹糸の髪。こんな綺麗な人は今まで一度も見たことがない。

降り続ける雨に濡れて色の濃くなったマントから覗く足のすらりとした長さと、唇から流れ出た声音の涼やかな低さが、その人物が男だということを語っていた。

「雨降りに走ると、危ねえぞ。気をつけろ」

美しい若者はそっけなく言うと、フードを深く被りなおし、もう用はないというようにライをその場に置いてさっさと歩きだした。

とっさに、叫んでいた。目的があったわけじゃない。

「ま……、待って下さい!待って!」

呼びとめられて歩みを止め、若者は振り返った。

今度はフードを後ろにめくってすべて外し、妖精のように整った顔を大粒の雨の下にあらわにする。

エメラルド色のふたつの瞳でライを不思議そうに見つめ、「俺になにか用か」と無感動な口調で言った。
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