導かれし者たちの短編

□勇者の眠り
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その夜は、風が強かった。

窓の隙間から忍び込むのは、悲鳴のような風鳴りと、猛々しい波が砂浜にぶつかって砕ける音。

強風に揺さぶられた木々のざわめきが、海辺の村の小さな宿を、耳障りな喧騒で包む。

「……」

天空の勇者と呼ばれる、緑色の瞳をした美しい容貌の少年は、安普請の部屋の薄っぺらいベッドの上でその晩何十回目かの寝返りを打った。



眠れない。



両隣を振り返っても、男部屋で共に眠る仲間達は全員、既に健やかな寝息を立てている。

彼ら同様、魔物との戦いを繰り返して行軍した身体は芯から疲れ、安息を求めているはずなのに、興に限って目を閉じてもなぜか睡魔はまったく訪れてくれない。

連日連夜悪夢にうなされるのも辛いが、睡眠不足で体力が回復しないまま翌日の旅に赴くのも、かなり辛いものだ。

(やばいな)

なんとかして少しでも眠らなければ、明日しんどいのは自分。

だがそう思えば思うほど、吸っては吐く呼吸音が耳につき、夜着の繊維の一本一本のごわついた感触まで気にかかる。

勇者の少年はふと思い付いた。

(……腕立て伏せでもするか)

身体が温まればきっと眠くなるだろうし、布団を跳ねのけてうつぶせ、取りあえず連続百回に挑戦してみることにする。

ところがひとたび始めると、状況は一変した。

良くも悪くも物事にとことん没頭するのが、負けず嫌いな自分の生まれながらの性分だということを、失念していたのだ。

百を数えれば、

(よし、このまま二百まで行けるな)

二百を数えれば、

(この調子なら、三百行けるんじゃないか)

三百を数えれば、

(うおお、四百行くぞ!)

五百、六百、ついでに七百。

気付けば口ずさむ回数はゆうに千を越え、勇者の少年はぜいぜいと息を切らせてシーツに身体を投げ出すと、汗だくになって頭を抱えた。

(なにやってんだ、俺……!)

宿のベッドでめでたくレベルアップ、しぐさ「うでたてふせ」追加。

だが忌みじくも、明日の出立時に抱えるステータス異常に、睡眠不足と筋肉痛まで加えることになってしまった。

(そうだ、確かクリフトが眠れない時はヒツジを数えるといいって言ってたよな)

勇者の少年は布団にもぐり、胸に手をあて呼吸を整えると、目を閉じて静かにその毛むくじゃらの獣の数をかぞえ始めた。

(ヒツジが一匹、ヒツジが二匹……)

three sheeps,ヒツジがさんびき。

four sheeps,ヒツジがよんひき。

………。

ヒツジ?

何回も口にしてると、なんだかおかしな名前だよな、ヒツジって。

そもそも、ヒツジってなんだ?

毛深いヤギとは違うのか。

導かれし仲間であるアリーナ王女と、その従者であるクリフト、ブライのの出身国サントハイムは、広大な領土に多くの畜産地帯を有しており、かの国を訪れるたびのどかに牧草を食む牛や、白雲の塊のようなヒツジの群れを目にした。

時には農夫たちが丸々太ったヒツジを捕らえて足を縛り、鎌を使って全身まるごと毛を刈る場面を目にすることも。

山奥の村で閉じ込められるように暮らして来て、17歳まで外の世界を全く知らなかった自分には、小さなことも全てが初体験、未知の連続。

つるんとしたピンクの肌をさらし、一回り以上も小さくなってしまった裸のヒツジを見て、内心言葉を失うほど驚愕したが、日頃ポーカーフェイスを装う手前、皆の前ではあくまで冷たい無関心を気取ったのだった。

氷はじつは、温められればいともたやすく溶けるもの。

不遜な無愛想を貫くのも、これで色々と大変なのである。

(あんな風にいきなり、身体じゅうの毛を刈って丸裸にしちまうなんて、誰もヒツジのことをかわいそうだって思わねえのかな)

勇者の少年はぼんやり考えた。

(俺がもしヒツジだったら、あんな扱いをされるのは絶対にご免だ。突然裸に剥かれるなんて)

(でも、毛はまた新しいのが生えて来るんだから、時々は綺麗に刈ってやった方がいいのかも)

(いや、生えて来なくなることもあるぞ。ブライの頭を見てみろ。

あの年季の入った輝き、禿げ山に成り果ててきっと十年以上は経つはずだ)

勇者の少年は恐る恐る、艶やかな自分の髪に手をやって、頭頂部を確かめるようにそっと撫でてみた。

豊穣の女神の御恵みを受けたヒース畑にも似て、フサフサのサラサラ。

今の所まだ、毛髪の需要と供給のアンバランスに困る心配はなさそうだ。

(でも、先のことなんて解らないよな。もしかしたら俺もいつか、あんなふうになるのかも……)

少年の脳裏に、突然否応なく豊かな体毛を奪われて、寒さに震える哀れなヒツジの姿が浮かんだ。

東方の異教を信仰するモンク僧は、精進潔斎のため皆すすんで髪を剃り落としたというが、好んでそうするのと図らずもそうなるのとは、全く意味合いが違う。

真珠みたいに見事に光る、つるりと毛のない頭に嵌められた天空の兜。

思わずぞっと青ざめる。

(絶対嫌だ!禿げてたまるか)

(ブライの爺様はいつも気難しく怒ってるから、血管に力が入り過ぎて髪が抜けちまったんだ)

(じゃあ、どうすれば禿げないんだ?どうすれば、ヒツジみたいにもこもこした毛がずっと生え続けるんだ?)

(どうすれば)

(伸ばせばいいのか)

(いや、刈ればいいのか)

(ヒツジがいいのか、ブライがいいのか)

(ブライがいっぴき、ブライがにひき……)

疑問が混乱を呼び、もはやなにがなんだか解らなくなる。

だが繰り返す言葉は、いつのまにか意味を越え、潮風に乗せて運ばれる誘眠の呪文になった。

砂浜に絡みつくさざ波のように、思考にとろりと眠気が忍び込んで来る。

(やばい、眠くなって来た)

薄れゆく視界の中で、勇者の少年はもやがかった意識を手放すまいと必死に抗った。

どうしてだろう?

なんとしても寝なければと、あれほど焦っていたはずなのに、このまま眠りたくない。

だが水を吸い込んだ綿のように、瞼はじわじわと重くなり、耳元で波の音色をまとった妖しいセイレーンが囁く。

(安心しなさい。不安を抱えたまま、夢に身を浸すことを怖がらないで。

眠ってもいいのです、迷える子羊よ)

(失いたくないものを失ってしまった者よ)

(傷ついた心に休息を)

(疲れた身体に癒しを)


(朝日に連れ去られるまでの残りわずかな夜を、ひとときの安らぎのうちに)



……そうだ。

全てを失い、行き先の解らない旅に否応なく身を投じてから、眠るのがとても苦手になった。

目を閉じて寝ることに抵抗を感じるのは、無防備になりたくないから?

かわいそうなヒツジみたいに、突然何もかもはぎとられるのは、もう嫌だから?

でも眠りの精は誰に対しても平等で、目を閉じればちゃんと、求める者に求めるだけの休息を与えてくれる。



それが眠り。




死に最も近く、だが決して同じではない、未来に続く目覚めを待つ眠り。










やがて、朝。

風は止んだ。

海辺で迎える朝日は、野山のそれより濃い煌めきを帯び、放射状に広がる陽光は、東西に長く伸びた水平線をまるでタペストリの刺繍のように鮮やかな黄金色で彩った。

「よく寝ていますね……。珍しい」

起床の時刻になっても毛布をかぶり、まったく起きようとしない勇者の少年を、神官クリフトは不思議そうにまばたきして見降ろした。

「普段は絶対に、誰よりも早く起きて身支度を整えているのに。

まるで、無防備な寝顔を他人にかたくなに見られないようにしているみたいに」

「いかに天空の血を引く勇者とて、時に寝過ごすこともあろうさ。

それでなくともこの不養生な少年は食事もろくに取らず、若さだけで毎日を乗り切っているようなもので、栄養も休養も揃って満足に足りておらぬのだ」

傍らでトレードマークの緋色の鎧を身につけていたライアンが、莞爾と笑った。

「こうして寝姿をさらすほど、ようやく気を許してくれるようになったということを、我ら仲間は手を取り合って喜ぶべきなのかもしれぬぞ」

「あとは、手を差し出せば背中の毛を逆立ててひっかくのと、近づけばすぐに逃げるのを止めてくれれば、万々歳なんですけどね」

「なんの話やら」

トルネコが肩をすくめた。

「おふたりが言ってるのを聞くと、まるで彼はなかなか懐かない、厄介な野良猫みたいですよ」

「扱いづらさと可愛げのなさは、野良猫以上だがな」

ベッドの周りで男たちが楽しげに破顔すると、毛布の中で勇者の少年が身じろぎした。

「……うー……ん……」

弓張月型の美しい眉がひそめられ、日ごろ無愛想に歪められてばかりの唇から弱々しい声が洩れる。

「い……、嫌だ……。

俺は、ぜったい……嫌だ……」

「もしかしてまた、故郷の惨事を思い出す悪夢にうなされているのでは」

心配そうなクリフトを制して、ライアンは耳を勇者の少年の唇に近付けると、目を丸くした。

「なんとおっしゃっているんです?」

「兜が似合わなくなる。ブライになるのは、どうしても嫌だ……と、言っている」

「なんじゃ。儂がどうしたというんじゃ?」

壁掛け鏡の前で髭に櫛を入れ、几帳面に身だしなみを整えていたブライが怪訝そうに振り返った。

「生意気な小僧……基い、勇者殿に嫌われることなど、わしゃ何もしておらんぞ」

「それに、ヒツジの毛を刈っちゃ駄目だ、かわいそうだ……とも言っているな。なんのことであろう」

「よく解りませんが」

クリフトは目元を和らげて、ふふっと笑った。

「でも少なくとも、今このお方のもとを訪れている夢の精は、あの日の悲しみを再び反芻させているわけではないようですね。

せっかくですから今朝はこのまま、もう少し休ませて差し上げることにしましょう。

たまには太陽に背中を追われながらゆるりと出発する、そんな日があってもいいのではありませんか?」

「朝の海は美しいしな。皆で、散策でもして来るか」

扉を開け、仲間達と外へ出て行きながら、クリフトは振り返って眠る少年を見つめた。

美しい翡翠色の瞳は閉じられ、陶器のような頬はうっすらと赤味を帯びている。そうしていると、彼は哀しいほど幼く見えた。

「お休みなさい、勇者様」

クリフトは囁いた。

「目覚めれば貴方の前に、また驚天動地の運命が次々と立ちはだかることでしょう。

だからせめて、今日はゆっくりと休んで……夢の中で寄り添ってくれる愛する人に、存分に見せてあげて下さいね。



まだわたしたちの誰にも向けてくれない、貴方の、心からの笑顔を」


扉がぱたんと閉められ、しんとした静寂が部屋を包む。

勇者の少年は柔らかな枕に頬をうずめて目を閉じ、規則的な寝息を静かに立て続けていた。


眠りの中、遠くに聞こえる潮騒の歌。




暁色の少年の夢で、温もりに覆われたまぼろしの羊が、力強く大地を蹴って跳ねた。




―FIN―






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