導かれし者たちの短編
□VOICE
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「ああーん!」
それは空に闇色のベールを落とした夜更け、とある宿でのこと。
薄皮一枚だけの安普請の壁の向こうから、ぞくぞくするような甘くて色っぽい声。
男たちが休む部屋まで響き渡って来る。
「あ、あーん!」
「……やばいな」
勇者と呼ばれる少年はがばと寝台から飛び降り、眠る神官クリフトを叩き起こした。
「おい、今すぐ行って止めて来い!クリフト」
寝ぼけまなこのクリフトは仰天した。
「だ、誰を?そしてなにを?」
「あいつだ。ついにサカリがついたんだ」
「あ、あいつって?」
「あいつって言ったら、あいつしかいねーだろ」
少年は美貌を引きつらせて立ち上がると、片足を曲げて脛のあたりに付け、片手を胸の前で折るともう片方の手をさっと横に伸ばしてみせた。
「ほら、こいつだ。このポーズ。説明書にも載ってるだろ」
「な……なんですか、それ。ギニュー特戦隊のポーズ?」
「そうそう、ジースもバータもたいしたことねえが、ギニューだけはなかなか強かったよな。
悟空と入れ替わっちまってさあ、俺ローソンでジャンプ立ち読みしながら焦ったよ……って、違うわ!」
勇者の少年は怒って足を踏み鳴らした。
「このポーズだ、この!踊り子の決めポーズだろうが!」
「ああ」
クリフトはようやく呑み込めたように頷いた。
「何を回りくどいことを。マーニャさん、とはっきりお呼びしたらよろしいではありませんか」
「駄目だ。うっかり呼んだらここに来るかもしれない。あいつは恐ろしく地獄耳だからな」
「サカリがどうのって、一体何のことです」
「お前、そんなこともわからねえのか」
勇者の少年は決めポーズを止めると、呆れたようにクリフトを見返した。
「サカリはサカリだろ。心身ともに湧き立つ春ってやつだ。世俗に疎い神官は、これだから困る」
「ば、馬鹿にしないでください。わたしだってそのくらいは知ってますよ」
「ふん、ほんとだろうな」
「当たり前じゃないですか!万物の命はぐぐまれる春。
サントハイムの教会の屋根裏でも、毎年それはたくさんの子猫が生まれたものです」
「猫が生まれようがロバが生まれようがどうでもいい。
問題はそのサカリが、ついにあいつにやって来ちまったってことなんだ」
「はあ……?」
いっこうに事情を理解できないクリフトが、あやふやな返事をすると、勇者と呼ばれる少年はひどく難しい表情を浮かべた。
「なあクリフト、止めるなら今しかないぜ。
恥ずかしげもなくあんな声をあげやがって、周りの迷惑を考えたことはあるのか?あいつは」
「あんな声?どんな声です」
「カマトトぶってんじゃねー。
それとも「人肌知らず」の聖職者さまは、そこまで説明しなきゃわからないって言うのか」
「だ、だからわたしはそうじゃな……!……ま、その話はいいでしょう。
つまりあなたは、さっきから聞こえるこの艶めいた声は、マーニャさんがあげていると思っているわけですね」
「あいつ以外に誰がいる」
勇者の少年は怖気をふるったように唇を噛んだ。
「昨日しこたま酒を飲んで酔っぱらったあいつは、テーブルの上で踊りながら大声で叫んでいた。
あー、そろそろあたしも男が欲しい、男が欲しいわあ…ってな。
だがあいつはあの通り、見てくれは良くても中身はがさつで我儘な派手女だ。まともな神経の男なら寄り付くはずがない。
つまり欲求がかなえられず我慢が限界に達し、ついに今夜実力行使に出た……ってわけだ」
「いや〜、ないない!ないですね、それ」
クリフトはこみ上げる笑いを懸命にこらえながら言った。
「前々から思っていたんですが、貴方様は無口で世間知らずなぶん、どうも想像力が豊かすぎますね。
そういうの、なんていうか知ってますか。ムッツリスケベって言うんですよ」
「なに?!」
勇者の少年は顔色を変えた。
「い、今俺を馬鹿にしたな。馬鹿にしやがったな、この野郎。表に出ろ!」
「あのですね、いくら図星だからって突然キレるのはやめて頂けますか。
これだから十代の少年は。新聞に名前が載らないからなにやってもいいと思ったら、大間違いですよ」
「て、てめー、なんだその「やれやれ」ってジェスチャーは?
アメリカ人か。アメリカ人気取りなのか、えっ?!」
「うるさいな、もう」
クリフトは顔をしかめて、壁に耳を寄せた。
「でもまあ確かに、ずいぶんとなまめかしい声音ではありますね」
「冗談じゃない。俺には腹をすかしたヤギの遠吠えにしか聞こえないね」
「まったく……、貴方はどうしてマーニャさんだけには、そうも手厳しいのでしょうか」
クリフトは苦笑した。