導かれし者たちの短編

□空の向こうにいる人
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あの遠い空の彼方に天国があるとか、お天道様が見ているから、誰も見てないひとりのときだって悪いことをしちゃいけないとか。

空にまつわる様々な逸話を教えられて育ったけれど、まさか空の向こうに自分の実の母親が暮らしているだなんて、そんなことを経験するやつは世界中どこを探しても、絶対に俺ひとりだけだろう。

ーーー「実の」母親って、なんだろうか。

母親というものに、もしも実や虚があるとするなら、俺にとってはある日突然現れた存在こそが、あきらかな虚像だというのに。

一秒たりとも共に過ごしたことがなければ、抱きしめられたことも、言葉を交わしたことすらなかった人。

顔も知らなかった。その存在さえも。

どれほど理解しようと試みても、あの日、目の前で顔を覆って泣きじゃくる翼の生えた美しい女性は、完全なる他人だった。

初めて会ったのに、まるで昔から知っているかのように何度も俺の名前を呼んでは、泣き濡れた瞳が同じ碧色をしている、と気づいた時、酸っぱい嫌悪感が込み上げた。

やめろ

嫌悪感は瞬時に困惑に、怯えに、そして泡立つような怒りに変わった。

誰だ

俺の名前を呼ぶな

それ以上近づくな

あんたなんか知らない

俺の母親は、この世にひとりしかいない。たったひとりだけだ

野生の獣が背中を総毛立て威嚇するように、鋭く叫び捨ててその場を逃げ出し、それ以来、その人とは一度も会っていない。

会いたいとも思わなかった。むしろ、忘れたかった。脳内でしつこく再生を繰り返す、あの日の記憶を消してしまいたかった。

実の母親という存在が、喪ったいとおしい母さんのことまで汚してしまう気がして、天空城などという場所を訪れたことを、心の底から後悔した。

それからほどなくして、世界は平和になった。

俺はもう戦うことはなくなり、勇者と呼ばれることもなくなり、山奥の村でシンシアと静かに暮らし、月日が経った。

時折、空を見上げる。どんなに晴天の日でも、空を見るとすっきりしない気持ちになる。この青く澄んだ空の向こうには、忘れたいのに忘れられない人がいる。

あの日のような嫌悪感はもう消えた。だが憎しみに似た感情のしこりは、消化されない石ころのようにまだ、心にわだかまっている。

元気でいるんだろうか。どうして気にする必要がある?もう二度と会うことはない。いや、ないのか?会ったところでどうなる。話すことはとくにない。

……ほんとうに、ない?

「おとうさんっ」

突然、足元にやわらかいなにかが飛びついて来て、俺は驚き、その正体を知ってふっと唇を緩ませた。

小さな両脇に手を差し入れて、子犬のように軽々と抱きかかえてやると、男の子はひどく嬉しそうに俺の首にしがみついた。

「おとうさん、だぁいすき」

ああ、俺も、と囁いて、幼い子供の甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。目の中に入れても痛くない、はただの比喩じゃなかった。人生でもうひとつ増えた、俺の生きる意味。かけがえのない宝物。

そのとき、はっと気づく。雲間が切れてぱらぱらと、夕立の雨粒のように唐突に答えが落ちて来る。

そうだ、話すことはある。こんなにも、あるのだ。



俺、家族が出来たんだ

あなたと共に生きることは出来なかったけれど

それでもあなたの生み出した命は、こうしてちゃんと未来へとつながっている。


だから



だから、もう泣かないでください




突如降り出した天気雨は、青い空と雲と風の合間を、透明の光を放ちながら駆け抜けた。

小さな子供が濡れないように、頭を抱え込んでぎゅっと抱きしめる。雨は地上だけの財産だ。空の向こうには雲がないから、決して雨が降ることはないだろう。

俺は、ここから見上げる空のように不安定で心が変わりやすく、もう一度会うにはもう少し、いやもっと、時間がかかるかもしれない。

だけど濡れて輪郭の滲んだ天空は、なぜかさっきよりくっきりと鮮明で、そこには希望という名の真新しい色が、虹のように淡く輝いて見えた。





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