クリアリ長編

□透明人間の秘密
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教会で悩める人々の告解を聞いている時、皆の問いかけに対して、無意識のうちに決まった言葉で答えていた。

「神官様、こんなことは初めてなのです」「こんなふうになったことは、これまで一度もなかったのです」

告解者たちが不安に顔を曇らせて呟くと、いつもクリフトはほほえんでこう返した。

「そうですか。ならばいっそ、その経験をこころゆくまで楽しんでみてはいかがでしょう。

人生とは必ず幕を閉じる舞台劇です。結末の訪れる物語です。その時間がどれほど短くとも長くとも、終わりがあることに何の違いもありません。みないつか、主役を演じ終えて神という興行主のもとへ召される日がやって来るのです。

だったら与えられたこの機会を無駄にせず、心に浮かぶ感情のひと粒すらあまさず味わいつくしてみましょう。こんなことがいつまで続くかわからない。


今と言う一瞬は、まぎれもなくあなたという物語の素晴らしい一場面なのですよ」



ならばわたしも楽しめるだろうか?

このまごうことなきあり得ない奇跡の瞬間を。

人に言うだけなら簡単だ。

そしてわたしは、これまでそれを繰り返し説いて生きて来た。

人生はいつなんどきでも突然終わる可能性を秘めていて、今そこにあるものはたやすく失われ、だからこそすべてが存在するだけで、言葉に尽くせないほどの喜びに満ちているのだと。

突如体を失くして、身にまとう衣服の中身は空洞となった。こうしているだけで震えるような恐怖がこみ上げる。刻一刻とあやふやになってゆく記憶。叫びだしそうなほど怖くてたまらない。

けれどわたしは、それすら笑顔で受け止めてみせる。



この間違いだらけの拙い人生が、もしかすると今日ここで終わるとしても、これこそがわたしの演じた「クリフト」という唯一無二の物語なのだから。





「……やっぱり、どう考えても服は着ない方がいいな」

クリフトは楕円形の手鏡を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。

磨き抜かれた鏡面には相変わらず目も鼻も映っていないが、もう驚くことも叫び声も上げることもなくなった。人とは恐ろしいほど慣れる生き物だ。自分の顔がないという事実に既に順応しつつある。

「まったく……。透明人間なんて、絵本の中の出来事だと思っていたのに」

思いを敢えて声に出しているのは、そうしないと今の自分が一体どういう存在なのかわからなくなってしまうからだった。

記憶が少しずつ薄れているのは、もはや明白だ。終始頭がぼうっとして(頭はないが)、思考が靄(もや)の中でじたばたともがいているような感覚がある。

ほんの数秒考えるのを止めて立ちすくんだだけで、頭の後ろが氷を押し当てられたように冷えて(頭はないのだが)、とたんに周囲の景色が初めて見るもののように真新しく目に映る。

さっきから、何度「あれ?わたしはなぜここにいるんだ?」と自分に問いかけたかわからない。

(きっと、そう長くは時間が残されていないのだ)

ならば、いつまでもこうしてはいられない。

クリフトはそろそろと見えない手足を上下に動かした。すると、まとっている衣服がその動きに合わせてたゆむ。手のない袖を首元へ持ち上げ、思い切ってぐっと掴んでみると、橙色のストールがくしゃっと勢いよく歪んだ。

(掴めている!)

クリフトは仰天した。

(手がないのに、物を掴めている。けれど触れた感触はない)

(どういうことだ?さっきは手鏡を拾おうとしても持てなかったのに)

袖だけの腕を下ろし、手鏡をじっと見つめながらそちらへもう一度見えざる手を伸ばす。

掴むということに意識を集中させて柄を睨むと、なんの手ごたえも感覚もなかったが、やがて空中にふわりと手鏡が持ち上がった。

(実体がないのだから、掴むというよりも、掴んだ「つもりである」という思念が具現化されるということなのだろうか。つまりは念動力のような)

(存在がないと、表層的行動よりも意思が力を持ち表面化するのだ。ゆえにわたしの意識がしっかりしている限り、こうしてちゃんと物を動かすことが出来る)

(やれやれ、わたしはだんだん透明人間であることのこつを掴んで来たみたいだな)

しかし、記憶が徐々に定かではなくなっている以上、意識がいつまでまともに持つかはわからない。自由に行動出来る時間には限界があると考えておいた方がいいだろう。

クリフトはしばらくためらっていたが、やがて意を決してある行動に出た。

着ている服を全て脱いだのだ。

萌黄色の神官服、白く清潔なチュニカ、そして橙色の厚みのあるストール。クリフトがいつも身にまとっているサントハイム教会お仕着せの聖職者の衣装が床の上にさらさらと折り重なって落ちる。

主人の身体を離れた服はただの柔らかい塊になり、途端に部屋の中に人らしき姿はなにひとつ見えなくなった。

「す、すーすーする……」

クリフトはぶるっと身震いした。未だかつて、沐浴と着替えの目的以外で真昼間からこんなにも堂々たる裸になったことがあるだろうか。

文句ひとつつけようのない、完璧な全裸だった。だがその姿は誰の目にも留まらない。なぜなら自分は今、透明人間だからだ。

服だけが空中にぷかぷか浮いているような状態を誰かに見られるわけには行かず、悩んだ末にこうすることにしたが、いくら他人には見えないとはいえ落ちつかないことこの上ない。

(ああ、神よ)

クリフトは必死に祈った。

(どうしてなのです。貴方様は一体何故、このような試練をわたしにお与えになったのですか。しかし、どのような苦難にぶつかろうとも、わたしは変わらずあなたの忠実なしもべです。

予想外の成り行きの上、致し方なくこのような常軌を逸した行為に及ぶこととなってしまいましたが、まかり間違ってもわたしが公衆の面前で衣服を脱ぐのが好きな、ヘンタイだとはお思いになりませぬように)

(わたしは本当は、人前では服を着ている方が落ちつくのです。あ、当たり前ですが)

さっきはアリーナ姫に生まれたままの姿で眠ってみたかったなどとうそぶいたが、もしもこの姿をばったり彼女に見られでもしたら、今度こそクリフトは頭がどうかなってしまったと思うのではないか。

凛とした気性の彼女だ。露出狂のヘンタイを従者に迎えることは二度とないだろう。つまりこの姿をアリーナ姫に目撃されたその瞬間、わたしという人間の人生は終わりを告げるのだ。

(どうか、どうか、突然元に戻るなんてことはありませんように)

いや、戻りたい。一刻も早く元の姿に戻りたいのだが、前触れもなく突然戻るのだけは絶対に困る。とにかく、なんとかして安全かつ無事に元通りの姿に帰るための方法を探さなければ。

(……ん?元に戻るといっても……わたしは元々、なんだったのだろうか)

再び思考がぼんやりして来て、クリフトは慌てて激しく頭を振った。

(忘れてはだめだ!意地でも覚えておくんだ。

わたしはクリフト。サントハイムの神官クリフト。強く気高く、世界一お美しい王女アリーナ殿下の従者)

意識のかすむ脳裏に、明るく輝く鳶色の瞳と愛らしい笑顔が浮かぶ。クリフトは大きく深呼吸して、形のない唇で心に刻むように何度もつぶやいた。

(アリーナ様。アリーナ様。我が主。我が姫君。

わたしの……生涯でただひとり、心からお慕いするお方)

霧がゆっくりと晴れてゆく。彼女の名前は妖魔を払ってくれる光の魔法だった。そうやってアリーナのことを考えているうちは、指の間から砂のようにこぼれ落ちてゆく記憶が、かろうじて形をなして手のひらにとどまってくれる。

(急がなければ。もう少しも時間がないぞ)

透明になったクリフトは部屋を出て、猛然と廊下を走り出した。

急げ。


急ぐんだ!
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