クリアリ短編1

□桜の咲く頃
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「おーい、聞こえる?


今頃なにをしてるの、ねえ……」


まるで急流にさらわれた落ち葉のように、冷たい風に乗った灰色の雲が彼方へ去って行く。

今日も、ひとり。

西日が濃さを増したぶんだけ、訪れる夜の淋しさがはっきりと想像出来て、アリーナは深いため息をつき、音を立てないように両手で丁寧に窓を閉めた。

冬のサントハイムは寒くて、じっとしているだけで手足の先がじんじん痺れる。

それにもうずいぶん長いこと空を見上げていたから、さすがに首が痛くなってしまった。

「これだけ雲が東へ流れたんだもの。あっちはきっと雨だわ。いいえ、雪かも。

クリフト、寒くないかな……風邪を引いていなきゃいいな」

呟いてはっとして、慌てて首を振る。

「ち、違うわよ、考えてない!考えてなんかないわ!

死の呪文を手放すため、ゴッドサイドで四十日間の魔法放棄の儀式を受けてるクリフトにとって、

いちばん妨げになるのは、俗世の人間からの「念」が届くことなんだから……!」

(ごめんなさい。

わたし、絶対にお前の邪魔なんてしないからね、クリフト!)

戒めた先から、既に誓いを破っていることに気付かずに、アリーナは踵を返してマホガニーの箪笥の引き出しを開けた。

組み木の間からふわりと立ち昇る、甘く清冽な白檀の香り。

丈が長く庇のついた不思議な形の神官帽は、持ち主から離れても、その凛然とした佇まいを失っていない。



「ねえクリフト、儀式のあいだ、すこしくらいはわたしのことを考えてくれるの?」

はい、勿論、とその場限りでも頷いておけばいいものを、生真面目すぎるほど生真面目な恋人は、難しい顔で言葉を濁した。

「そうしたいのは山々ですが……なにせ、ザキとザラキの呪文を放棄するためには、精神を完全なる「無」へと回帰せねばなりません。

果たしてわたしごとき未熟者が、瞑想のさなか、更に姫様に思いを向けるということが出来るかどうか」

「わかったわよ」

アリーナはむくれて言った。

ひと月以上も逢えないというのに、クリフトの顔はどこか明るくて、屈みがちな背中も真っ直ぐに伸びている。

「なによ、そんなに嬉しいの?」

わたしと離れるのが、と続ける前に、クリフトは重々しく頷いた。

「はい。これでようやく、死の呪文のくびきから解放されるのですから。

わたしはずっと、本来なればこの世に死の呪文など、決してあってはならないと思って来た。

それが使われる機会など、決して来てはならないと思って来た。

旅を終え、世界の平和とサントハイムの民の復帰という宿願は果たされ、もはやわたしにこの呪文は必要ありません。

……それに、このままこの呪文を有していれば、弱きわたしは貴女への思慕ゆえに、時にその戒めさえ破ってしまうやもしれぬし」

「どういうこと?」

「もしも貴女が、何者かによって命の危機にさらされた時、わたしは再びこの呪文を使いたい、と思ってしまうかもしれないということです」

「でも、それはわたしを助けるためなんでしょ」

「貴女を助けたいという気持ちと、そのために誰かの命を奪うという行為は、まったく別の事なのですよ。

わたしは死の呪文を自分の切り札にしたくない。

少なくとも、これからはもう、決してそうしたくない」

呟く彼の唇が、ほんの少し震えていることに気付いて、アリーナはようやく知った。


ああ、彼は、ほんとうに嫌だったのだ。


命を奪うことが。


それを世界でたったひとり、神の名のもとに許されていた自分が。


「とにかく、次にお会いする時は、わたしは死の呪文を捨てたわたしです」

クリフトは微笑んだ。

「だから姫様をお守りする魔法使いとしての力量は、以前より弱くなっているかもしれませんが」

「そんなことないわ」

アリーナは首を振った。

「クリフト、お前は魔法より強く揺るがない力を持っている。

それにもし、魔法なんか使えないとしても、お前はわたしの危機に必ず助けに来てくれる。

それと、もうひとつ忘れてるわよ」

「なんでしょうか」

「お前の恋人は、襲い来る危機に悲鳴を上げて立ちすくむだけの、硝子の靴を履いたお姫様じゃないってことよ!

お前が助けに来た頃には悪漢はもう全員昏倒、泡を食って逃げ出してる可能性大だわ」

「確かに」

クリフトは白い歯を見せて、楽しそうに笑った。

「その通りですね。わたしはどうやら勘違いをしていたようです」

「ねえクリフト、帽子をここに置いていってもらえる?」

アリーナはもじもじしながら言った。

「ひ、ひと月もお前のことを考えないようにするのは、すごく難しいわ。

だから時々お前の帽子をかぶって、寒さの厳しいゴットサイドでクリフトも頑張っているんだからって、わたしも自分を戒めるから」

「ご心配されなくとも、もうすぐ春です、姫様。暖かくなる頃には、わたしもこの国に戻っています」

クリフトは頭から長い聖帽を外し、アリーナにそっと手渡した。

「そうだ、わたしが帰って来た頃には、サントハイムの庭園にも桜が咲いているかもしれませんね」

「桜?」

アリーナは振り返って、窓の向こうに霞む景色を見た。

「ああ、こないだ新しく植えたあの木ね。

古代の、東の日出づる国から伝わったという、あの不思議な木」

「桜は、古代文字で「日本花」とも書きます。花言葉は「高貴」「心の美しさ」。

神の恩寵を形とするという古代語「サクラメント」にも似て、類まれなる美しい名を持つ樹木です。


桜の咲く頃、黒き力を失った自分として、生まれ変わってまた貴女のお傍にとこしえにいられますように」


それまでどうかお健やかで、待っていて下さいね。


そう言って、クリフトは去っていった。

いつもいつも後ろから見守るように歩んでは、励まし、力づけ、背中を押してくれた彼。

永遠の誓いを交わしたこれからは、こうして自分のもとを離れることもあるのだろう。


でもわたしはここにいる。


いつだってここにいる。


春が来て、真新しいお前が歩む道に、咲き乱れる桜が鮮やかな風をいざなうように、


いつだってわたしが、おまえにとっての道しるべでありますように。


「早く咲くといいね、クリフト……。

さく……ら、が……」

白檀がかぐわしい帽子に頬をうずめて、寝台にもたれていたアリーナは、やがて溶けるような桜色の夢に落ちて行った。





−FIN−






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