真・三國無双(庶法)

□*晧月――狂オシキ恋
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 君を恋して、俺の歴史は変わる。


 人の顔を覚えるのは得意だ。
 報復のためにも報恩のためにも、有用な特技。いついかなる時でも――敵陣の中で孤立した時も、その能力は遺憾なく発揮できる。
 戟の柄でこめかみを打った者、連結布を切り裂いた者、戈で地面に突き倒した者。後ろ手に縛った兵卒の顔は見られなかったが、そちらは声で覚えている。膝をつかされた砂礫の上で、法正は口角を上げていた。
 ――ちょうどいい、怨嗟をためるついでに、奴らとの交戦中に行方知れずになった男の処遇を質してやる。
 髪を掴まれ、上向かされた。顔を覗きこんでいるのは、先刻頭を殴った男だ。顔にはただ敵軍の軍師を捕らえたというだけではない、下卑た興奮がある。
「間違いないな。こいつが法正だ」
「ああ。見てみろよ、確かに美丈夫だぜ」
 法正を取り囲む兵卒の、甲冑や刃が鈍く反射する光は青。不倶戴天の曹魏の軍勢。
 狙いの見えない奇妙な布陣、そして奇妙な進軍のさせ方ではあった。曹操の軍がかつて見せたことのない兵の展開のしかた。乱軍のなかで、法正の率いる一団は分断され、気づけばこの有り様だった。
「あんたは劉備の愛妾なんだってな? どんな声で啼くのか聞かせてくれよ」
 戟の柄で押さえつけられている背がみしみしと軋む。間近に迫る男に、口内に溜まっていた朱を吐きかけて返答とした。憤慨に顔を歪める男の周囲で、囃すような声が上がる。
「捕虜の分際でいい度胸じゃねえか。なんなら馬車の中で順番に可愛がってやってもいいんだぜ」
 緑の衣の下で体が強張ったが、報復への執念がそれに勝った。切れた唇のはしを吊り上げ、法正は凄絶に、笑んでみせる。
「…食いちぎられたい奴から試してみるといい。後宮に仕えたいのはどいつだ?」
 その気迫に男たちは一瞬気圧されたが、相手はたったひとり、しかも拘束したばかりの捕虜だ。すぐに野卑な高揚を取り戻す。
「なるほど、こいつは上玉だ。ならお言葉に甘えて楽しませてもらうとするか」
「その前に、二度とナメた真似ができねえよう痛めつけてやらねえとな」
 目の前の男が戟を振りかざす。低い声が割り込んだのは、そのときだった。
「手荒な真似はするなと言わなかったか?」
 異様な熱を帯びる場の空気を一瞬にして凍りつかせる絶対零度の声。けれど法正が戦慄したのは、その冷たさにではなかった。
 聞き間違えるはずもないその声の、持ち主。視界に認めた武将に法正は目をみはる。
「徐…庶…」
 頭巾を目深にかぶるのは、追われる身である彼――徐元直がたびたび見せる姿だ。ただし目の前にいる彼が今頂くその色は、法正の見知った緑、ではなかった。
「徐庶殿、いえそれが、抵抗したもんですから――」
 髪を掴んでいた兵卒が法正を離して畏まったが、徐庶は耳を貸さない。手にした愛用の撃剣を繰り、法正に手をあげた者、触れた者、言葉を浴びせた者すらも撫で斬りにした。倒れて呻く兵卒には目もくれず、静かに周囲を威圧する。
「その人を傷つけるな。丁重に連れて行くんだ。何度も言わせないでくれ」
 声と同じ冷ややかさを湛えた目で命じ、それから、と声に怒気を込めた。
「この人に妙な気を起こすのもわかるが…俺は同類の匂いには敏感なんだ。この意味、わかるだろう?」
 青の武装を身にまとった徐庶は踵を返す。茫然と徐庶を見上げる法正には一瞥もくれなかった。
「待て、徐庶…!」
 思わず呼び止めるが、徐庶の歩みは止まらない。耐え難い混乱と恐怖に激し、法正はなおもその背に声をぶつける。
「徐庶!」
 振り返らない徐庶の、進む先には魏の王――曹操の偉容があった。
「首尾は上々のようだな。徐庶、手筈はわかっていよう。その色を身にまとう者を、我か陣営に迎えるわけにはゆかぬ。話はそれからよ」
「はい」
 彼らの背後で、呪符のように牙旗がひるがえる。言葉をうしなっている法正を差し置き、徐庶は平然と曹操に拱手した。血管が不穏な脈を打ち、曹操の手にある将剣で切り裂かれたように胸が痛む。
(…なぜ、曹操などに…)
 自分はまた悪夢のなかにいるのかと疑った。この数週間で夢魔には追われ飽いたが、こんな種類の夢は見たことがない。
 そして膝に刺さる礫の痛み、受けたばかりの生々しい衝撃――今法正が見ているのは、夢ではなかった。
 縛られた手首を掴まれて立たされる。徐庶の恫喝が効いたのか、兵卒の手つきは穏便だった。そのまま武器を積んだ馬車に乗せられ、幌のうちで行軍の音を聞く。
(落ち着かなければ――)
 背中に冷たい汗を生じていた。魏軍との戦のうちに徐庶がいなくなったのは十数日前だ。その間に徐庶は衣の色を変え、魏に下ったというのか。彼の身を案ずる者の、心痛など置き去りにして。
 ――生きていてほしいとは願った。実際思い積みすぎてどうにかなりそうなほどに。
 けれど果たして自分はこんなかたちの再会を――願っていただろうか?
 なにより法正を動転させたのは、徐庶の目にある冷然とした決意だ。
 法正とは目を合わせず、一切の意思の疎通を断絶した徐庶。斟酌や弁明を放棄したその態度。
 ――命を楯に取られ、不本意に従属させられているわけではない。既にこれほどの権限を与えられていることから見ても、徐庶は自ら進んで曹操に仕えている。
(徐庶、おまえは俺を――)
 法正と同じ緑をまとう徐庶に、愛の言葉をいくつ囁かれただろう。
 ――俺たちは龍の護る陣営のなかで、魂ごと想い合っていることなど大前提に、互いを自らの在処としたのではなかったか。
(それともそう思っていたのは、俺だけだったのか?)
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