真・三國無双(庶法)

□*翠雨――艶やかな恋
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 何よりも劇薬なのは、その色香だ。

「おはようございます、法正殿」
 朝暉のなかの麗容にたっぷりと見惚れてから徐庶は声をかけた。
「ああ、あなたですか」
 早朝、まだ人気のない宮廷の回廊。名を呼ばれた蜀の名軍師、法正――法孝直――は、艶やかな黒髪をさらりと流して向く。焦らすように緩慢なその所作。それは身嗜みや言葉遣いばかりではなく、しぐさの随所にまで手入れが行き届いていると思わせる一方で、
(早くこっちを向いてください、法正殿)
 そんな焦燥を見透かされているような気にもさせる。
「お早い出仕ですね」
「え、ええ…あなたも」
 法正は悠然と歩み寄ってきた。香を焚き染めているかのように、そばに来ると匂い立つような佳気が漂う。
 既にかるい陶酔を覚えながら、徐庶は徳性なき、と謳われる参謀を見下ろした。
(白檀? 沈香?)
 いや違う。かぐわしいのは法正そのものなのだ。
「おはようございます、徐庶殿」
 それが証拠に、彼の声さえも香気を放っているではないか。色の深い絹織物のようになめらかな光沢のある、痺れるほどにあまく低い法正の声。
「まだ公務中ではありません。どうぞ、平語で…お話しください」
 徐庶相手にこそ対等な口をきくが、法正は目上にも目下にも、丁寧な敬語を使う。高い教養と品性とを感じさせる一方、法正の操る敬語は、なぜかひどく背徳的に――そして蠱惑的に響いた。
 法正は愉快そうに目を細める。口角にある笑みが深くなった。
「お前相手だとつい本音が出るからな。抑制していたんだ」
 法正が悪党と言われるわけは、過去に私怨をもった人間を、権力を行使して殺害しているから、なのだそうだ。
 同じ罪でも俺とはだいぶ事情が違う、とは思うが、それを不快に思わないのは、彼が報復の精神を一貫しているからだろう。
 それよりも徐庶が思うのは、恣意的に人を処断する横暴を持ちながら、法正には刺々しさや荒々しさを感じないことだ。法正は狡猾で周到であるがゆえに、報復するにしても真綿で絞めるような追い詰めかたを選ぶ。もしも殺意にも精度というものがあるなら、法正のそれは成熟した、淑やかな殺意だ。要するに、殺意さえ、
(…嫋やいでいる)
 としか思えない。
 といって法正が女々しいかと問われれば、そうではなかった。声の低さも戦振りも女性とは似つかなければ、容色といい物言いといい、やや線の細い趙雲や病弱な諸葛亮などよりよほど男性的ではある。けれどそれでもって連結布をさばき、徐庶を誘惑する法正に自分はいちころなのだ。彼が男であることも、徐庶にとっては抜き差しならない法正の魅力だった。
「今は、聞いている者もいません」
「なら、お前も普通に話すといい。…いつものように、な」
 意味ありげな流し目を受けて徐庶は息を詰める。背筋が伸びるのがわかった。
 この眸に見つめられたら、平静など保ちようがない。
(…なぜ皆、平気なんだろう)
 それとも逐一動揺してしまうのは、自分の未熟さゆえなのだろうか。
(…いや、違うか)
 蜀には、自他ともに認める悪党である彼を忌避する者も多い。彼自身はそれを、仁と徳を是とするこの国柄ゆえだと解釈しているだろうが。
(実際のところは――)
 このひとに近づきすぎれば、たちまち魅せられて、虜となる。
 だから畏懼するのだ。劇薬、とまで称される彼の智謀と、百錬の鏡の如く徹底した報復の信条と――その、逃れ難い妖艶を。
(皆、わかっているんだ)
 法正を前にすると、煮えたつ釜の中の湯玉のようにさまざまな種の欲望が湧き上がる。
 その声をもっと聴きたい。艶やかな前髪をかきあげ、輪郭の濃い双眸を見つめたい。なめらかな褐色の肌を抱き締めたい。妖しく誘う唇に翻弄されたい。指先まで余すところなく感じさせたい。熱く悩ましい吐息を身体中に浴びたい。
 ――あなたに、覆い被さって。
 本人を前にそこまで思い募ってしまうことにひとり、忸怩たる思いも抱えるのだが。
(…あなたのままでいてほしい)
 そんな風に、痛切に願いもする。
 辛いことのないように、身命を賭して護りたい。微笑みでみたしてあげたい。幸せにしてあげたい。
 ことごとく俺を掻き立てる人だ、と思う。
「どうした、徐庶。俺を抱きたいのか」
「え」
 言葉を探す徐庶を眺め、当の本人は図星をついた。ゆっくりと脇をすり抜け、背後に回り込む。美しい斑紋をもつ大型の肉食獣のようだ。
「昨晩…いや、今朝がたまでか。あれほどくれたばかりだろう? 随分羽振りがいいな」
 徐庶を周回する法正に合わせて長身を反転させながら、徐庶はその姿を追う。
「い、いやあ…それは、君さえよければ…いえ! ではなくて…ゆうべはあなたに、その、失礼がなかったかと…」
 先述の通りその容貌は、諸葛亮のような「白皙の美青年」でもなければ、その弟子、姜維のような「花恥ずかしき美丈夫」とも違う。褐色の肌に濃い眉宇と彫りの深い目鼻立ち、二重で垂れ気味の双眸に、いかにも人を食ったような笑顔は、癖の強い色男、という印象がある。その法正が体を寄せてきた。長い指でそっと頬に触れられる。
「ほ、法正殿?」
「失礼どころか、素敵な夜でしたよ。…病みつきになりそうです」
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