真・三國無双(庶法)

□*銀鱗――妖しき恋
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一、曹操

 覇道に生くる乱世の奸雄、曹操は、その実優れた詩人でもある。
 その功績は、後世に「槊を横たえて詩を賦す」と言われたほどだ。進軍の最中や戦の前の宴にあってもその理想を、ときには辛苦を詠じ、多くの秀逸な楽府を残している。
 かように詩情を解する彼であるから、水辺に艨艟(もうどう)を浮かべる代わりに、器のなかを気ままに游ぐ金魚(チンユイ)を臨むのもまた、よしとした。後苑につくらせた湖畔、水閣の一欄にあって、間近で交わされる碁石の音を聞きながらとなればなおさらである。
「さて。そろそろ観念して、こちらの軍勢に加わるというのはどうだろう」
 象篏で装飾された羅漢床(ソファーベッド)に身をもたせ、台座に飾られた金魚を眺める曹操の傍ら。至宝を囲うようにめぐらされた彩帳の裡で、郭嘉――魏の天才軍師、郭奉孝――は、ひとりの男と碁盤を挟んでいた。
「お言葉ですが、そもそも軍師としての俺は死んだと宣ったのは、そこにいるあなたの主君ですよ」
 応える男は笑んでいる。態度も言葉遣いも慇懃ではあるものの、それはどこか不遜な印象を与えた。しかし気分を害したふうもなく、郭嘉もまた、口許のほのかな笑みを明らかにする。
「それは残念だね。あなたと軍議ができたら、面白いのに」
 あながち冗談でもない口調だった。郭嘉が白を、男が黒を握る盤上では、実力伯仲の接戦が繰り広げられている。
「…ええ、面白いでしょうね。この局面でそういう手を打ってくる方との軍議は」
「さっきさんざん私の陣地を荒らしてくれたあなたに言われる筋合いはないよ、法正殿」
 郭嘉の相手を務めるのは、蜀の尚書令、法正だ。彼が捕縛され、虜囚として曹操軍へ属してからしばらく経つ。
 献策するでもなく、人質として利用するでもない彼を生かしておくのにはわけがあった。曹操の配下のひとりに、褒賞として与えるためである。
「私がこの勝負に勝ったら、考えてもらえるかな?」
「 二君にまみえるつもりはないんでね。あくまでも俺は徐庶の所有物、そういうことにしておいてください」
「愛玩品、でしょう? …そこに関しては、認めるんだね」
 法正を求めたのは、彼と同じく蜀で軍師を務めていた徐庶だった。
 先の戦で捕らえた折、己の才や気概を卑下していた彼は、法正の名を聞いた途端に変貌した。そこに曹操が見たのは、さきほどまでとは別人のような激情と、そのもっと奥にある荒淫の性質(たち)。そして蜀の将、劉備の掲げる王道にあるまじき貪婪を露呈した彼の眼前に、曹操は一番の餌をぶら下げたのだ。
「法正殿を…俺に賜ると?」
 徐庶の才知、志操、そして人物に興味をそそられた。利発と勇敢とを併せ持つ端整な相貌にはそぐわないその獣性。
「ああ、やろう。さすれば法正は、お前だけのものよ」
 同時に狂おしい恋情に身を灼く徐庶を、主君への、拭えぬ悋気に煩悶する徐庶を、どこかで不憫に思いもした。念のために郭嘉を監視につけて策を練らせてみたが、彼に違背の念はないようだった。
「ご心配なく。少々不安はあるようですが、徐庶殿はまさに才気煥発。劉備も惜しいことをしたものです」
 郭嘉の報告通り、次の戦は上々の出来となる。引き出された法正を、意外の感に打たれながら曹操は眺めた。
(これが、徐庶の好みか)
 これはまた毛色の変わった、というのが最初の所感だった。
(……話には聞いていたが)
 確かに美しくはある。が、美丈夫、と呼ぶには毒がありすぎた。くせの強い、彫りの深い目鼻立ちに、異国を思わせる褐色の肌。彼にあるのは、郭嘉のように場を清める涼とした精美ではなかった。むしろ空気を濁らせるような熱を放つ、いながらに人を惑わせ堕落させる妖美の類いである。怜悧でありながらも陰湿な眸は、狙うものを決して逃がしはしない執念深さをも物語っていた。
「別に構いませんよ。あなたがたこぞって、我が怨念に怯えるといい」
 白刃を喉元にあてがわれ、法正は曹操を前にそう嘯く。しかしこの男も、徐庶の名を出すと表情を変えた。徐庶をこの地へ導いた張本人でありながら、彼自身はそこから徐庶を救いだそうとしている。ままならぬものよ、と曹操はこれもまた興がった。
「さて、いかな夜になるか」
 徐庶が法正を臥房へ連れ去ったのち、楽女に戯れていた郭嘉がそばへ来ると、曹操はひとりごちるように問いかけた。
「きっと、素敵な夜を過ごされますよ」
 皮肉なのか本気なのか、郭嘉の物言いは酒脱で、一切の重さを含まない。緊迫した戦況でさえ、郭嘉が語る軍略は宴の肴のように聞こえた。裾にゆくにつれて白から海藍(ハイラン)へと変わっていく上品な色調の衣を銀鱗のひれの如く優雅に揺らし、繊手に玉杯を重ねながら酒席を游ぐ郭嘉。冠をした色素の薄い金の髪は、燭台の灯火に控えめに映えていた。
「ならば我らも、あれに倣うか」
 見目麗しい郭嘉の表情は、目をまろくして驚くとあどけなくなる。いかにも聡明な平生の微笑みも好ましかったが、その笑みが揺らぐのを見るのも曹操は好きだった。きめの細かい白磁の肌をもつ青年は、柔らかな物腰で諾を示す。
「そんなに早く酒に飽かせてしまうとは…軍祭酒失格ですね」
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