真・三國無双(庶法)

□*幻燈――由々しき恋
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 市街にも宮廷にも、しめやかな(深藍(シェンラン)の帳が下りた深更。
「たらいまあ」といういやに間延びした、調子外れに明るい声が法正の政務室に響いた。
「…いらっしゃい」
「やあ孝直、君の大好きな徐君のお帰りだよ。はい、お土産」
「…ありがとうございます、俺の愛しい徐君」
 折り詰めを文机に載せた酔客――徐庶は、法正がまだ筆を手にしているのも構わず背中からきつく抱きすくめ、もふもふと彼の髪に鼻を埋めた。
「湯浴みをしたんだね。はあ、いい匂い」
 平生の彼らしからぬ陽気さに思わず笑ってしまいながら、法正は頭に口づけを受ける。おかえりなさい、と鼻先をずらして頬に口づけ返すと、徐庶はへらりと表情を緩めた。締まりがなくとも、好男子は好男子である。無精髭が頬に擦りつけられた。
「まだ仕事をしていたのかい? 偉いなあ。それ、次の軍議のためのだろう。俺も献策、手伝うよ」
「お気持ちは有難いのですがね。…さりげなく触っていませんか?」
 その目は文面を追っていても、徐庶の唇は法正の耳朶を甘噛みしている。やたらと顎や鎖骨に触れてくる大きな手がこそばゆい。
「だって君、すごくすべすべであったかい…」
「見事にできあがってますねえ」
 法正をかき撫でながら、悩める軍師はさも機嫌良さそうに喉を鳴らした。やや舌足らずに称賛する。
「んん〜、孝直ってなんでこんなに気持ちがいいんだろう」
 四更にもなる時分の突然の訪問、しかも相手は酔っ払いだ。力任せに抱きすくめられて仕事を邪魔されて、少しは不快になってもよさそうなものだと、自分でも思うのだが。
(…お手上げだな)
 法正の肌はむしろ徐庶の体温を美味そうに啜り、そばに来てくれたことを喜んでいる。身に馴染んだ気に入りの袍が浄められ、日に干されて戻ってきたような気分だ(その袍は今、浄められるどころか大いに酒臭いのだが)。
 これだけ酔っていればまともな会話は望めまいと、たかを括って法正は筆を進める。
「まあ、当然でしょうね。あなたへの想いが俺の匂いや手触りをつくっているんですから、あなたにとって心地好いのは当たり前です」
「それって、君が俺を好きだってことかい? 嬉しいなあ。そんなことまでわかるなんて、君は本当に聡明なんだね」
 逢いたかった、心安い、心地好い、あたたかい、好きだ。徐庶はふんだんにある法正の語彙から、好意的な――とても安直な、単純な――言葉を引き出す術に長けている。それも労せずして。濡れ手で粟もいいところだ。
「お友達とは盛り上がりましたか」
 そういう名目で街へ出ていったことを思い出し、水を向けてみる。このままだと一直線に流されてしまいそうだ。無意味とは知りつつ、抗いがたい徐庶の勾引のなかを、少しは泳がねばならない。
「ああ、皆、元気だったよ。その後妓楼に行くって言っていたんだけれど、俺は孝直に逢いたいからぬけてきたんだ」
 要するに、そういう連中だったわけだ。どこでどう意気投合するのか、徐庶は巷の(破落戸(ごろつき)とも顔馴染みである。そのためか、市井の世情はいち早く手に入れてきた。破落戸と群れるには温雅すぎ、水鏡門下生と関わるには粗野すぎる面が徐庶にはある。それを半端ととるか中庸ととるかは人によるだろうが、その人脈や情報網は俗世にはやや疎い諸葛亮や法正をもたびたび助けていた。
「お行儀のよろしいことで結構ですね」
「そうじゃなくて…俺の場合は、そういうことになるんだよ。俺は情人も婦も妾も、みんな君だもの」
「…そうだったんですか。そんなに兼任していたとは、初耳ですよ」
「だって君はいろんな顔をするから。俺は報復の君と報恩の君と…軍師の君と、劇薬の君と。いろんな君と恋してるんだ」
「ならば俺にも、情人がいて夫がいて間男までいるわけですか。どうも俺とあなたは、けしからぬ仲のようですね」
「君とならいいよ、そういうのも」
 結局押しきられるかたちでともに牀につくことになった。明日に響いては不憫だと、徐庶が湯殿に行っている間に生薬を煎じておいてやる。
「あっ、もう着替えてしまったのかい? 俺も手伝ってあげたかったのに」
「下心もそうあけすけだといっそ清々しいというか、爽快というか」
 徐庶は煮立てた生薬を受け取ったが、うぅと唸って端正な顔をしかめた。
「苦そうだなあ」
「良薬口に苦しです」
「俺は甘い劇薬が好きなんだけどなあ…法正殿?」
 一気に飲もうか、少しずついくべきか、と逡巡しているらしい手ごと器を掴み、法正は薬湯を自らの口に流し込む。劇薬にくるんで、徐庶に飲ませた。
 敬遠していたわりには時間をかけ、舌に残る味の余韻まで丹念に絡めとってから、徐庶は照れたように法正を見下ろす。
「…ありがとう。こんな薬だったら、いくらでも飲めるよ」
「あなた専用の妓楼とあっては、相応のもてなしをしてさしあげねばなりませんからね」
「君がいるところが俺専用かあ。俺、通い詰めてしまいそうだな」
「すでに今でものべつ、ここへは足を運んでくださっているじゃありませんか」
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