真・三國無双(庶法)

□*玉樹――濃やかな恋
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 紲(きずな)濃き蜀の軍師は、龍を仰ぐ。

 撃剣の一閃が、勝負を分かった。
 諸葛亮、龐統、姜維と、名だたる軍師を負かした徐庶は、凱歌を挙げる間もなく残るひとりを仕留めに向かう。龐統は帽子の鐔を上げつつ、見る間に小さくなってゆくふたつの背を見送った。
「やれやれ、元直相手にしては、善戦した方かねえ」
 劉備の麾下、戦を間近に控えた蜀の軍師たちは、陣営のそばで演習に精を出していた。
「いろいろと試してはみましたが…私たちでは、やはり力不足でしたね」
 諸葛亮が同意する。軍略に関しては同門の二人に指南を受けることもある徐庶だが、武勇にかけては立場が逆転した。時には今回のように「俺の鍛練にもなるように、よければ、同時にかかってきてくれないか」と大口を叩くこともある。それでもその大言に違わず、徐庶は軍師とは思えぬ機動力と腕力、そして剣術で旧友を破ってみせるのだった。
「けれどまさか、あなたまでもが敗れるとは思いませんでしたよ」
 諸葛亮は、隣で息を弾ませている愛弟子に穏やかな笑みを向ける。若き麒麟児は溌剌とかぶりを振った。
「いえ、私などまだまだ弱輩の身ゆえ…お二人は同門なのですよね。徐庶殿は、当時からあれほどお強かったのですか?」
「ええ、武においては、私や龐統などはじめから元直の相手ではありません。劉備殿へ仕官して以来、ここ数年でさらに磨きをかけたようですしね」
「なるほど…」
「さ、あっしらは一足先に休むとしようか。お二人さんは、当分帰っちゃ来ないだろうよ」
 座り込んで憩っていた龐統が腰を上げると、姜維は意外そうにふたりが向かった丘を振り返る。
「雌雄を決するのに時間を要するということですか? …法正殿も、それほどの武を秘めておられると?」
「…あなたは本当に、疑うことを知りませんね」


 なだらかな稜線をもつ丘のうえを、徐庶は法正を追って駆けていた。吹き抜ける夕風に草葉がさざめく。彼の背後から追いつき、彼を追い抜き、遥けき三國を駆けてゆく陣風。渺々(びょうびょう)たるさみどりの風色が、徐庶は好きだ。彼はそこに主君の偉容を、知己の神算を見る。蜀帝たる劉備の掲げる旗印の牙緑(ヤーリュー)を、将星たちが戦袍として纏う自分と同じ翠緑(ツイリュー)を、泡纏う臥龍の鱗の碧玉石(ピーユーシー)さえ。
 捉えられる距離にまで徐庶が迫っているのを知り、法正は目眩ましにと連結布を翻す。けれど徐庶が目を奪われるのは、その錦繍の鮮やかな紅にではなかった。法正を包む軍袍の袖が、裾が、風をはらんでつややかな黒髪とともになびく。
(ああ…)
 この國の至宝である、あらゆる翠色の彩層のなかで。
 いま眼前に躍る濃くあでやかな孔雀緑(コンチュエリュー)こそ、俺がこよなく愛しみ、ひたすらに慕ういろだ。
 貴やかに艶に徐庶をいざなう蜀の尚書令、悪党らしく際どい香気を何よりの衣とする法正。
 俺の匂やかな劇薬。
「逃げてばかりじゃ勝ち目はないぞ」
「あなたこそ、追うばかりでは討ち取ったことにはなりませんよ」
 意図には気づいている。風を味方につけ、連結布を操って翻弄しようというのだろう。
(そうはさせない)
 頂上には大樹がそびえていた。連結布をかわしつつ法正に追いついた徐庶は撃剣を振るい、木肌に背中を押しつけさせるかたちで追いつめる。法正の顔を挟むように長剣と短刀を幹に突き立て、紐を首の前に張って動きを止めた。
「ここまでだな」
 言われて法正は悔しそうに徐庶を見上げる。が、ふと息をついて口許を緩めた。
「…もう、悩める軍師は面影もありませんね」
 黄昏どきである。
 夕陽は彼の妖艶なかんばせを照らすに相応しい燭火となって射していた。反影と薄明があいまって、一帯は琥珀を敷いたように照り映えている。
「今やあなたは、策だけでなく…諸将を凌ぐ、赫々たる勇名をも縦(ほしいまま)にしている。まったく、いつのまにこんな男になったのか…」
 黒い手袋を嵌めた指で、法正は徐庶の頬に触れた。そっと、感慨深そうに。
「はじめてお逢いしてよりずっと、俺はあなたを見てきました。あの頃から偉丈夫ではありましたが…本当に、蜀帝の忠臣として申し分のない高士におなりだ」
 やや面長の、徐庶の端整な顔立ち。穏健でありながら、どこか陰のある男振りは、逆光となっても見てとれる。
 一剣天下を治む。その気概は彼が破衣孤剣で流亡していた時分と同じだ。至誠をたたえるその為人(ひととなり)を体現するかのように、徐庶の風姿は雄勁を深めている。数多の戦場と軍議をくぐりぬけ、武将としての朴直と、軍師としての深慮とを双肩に具した徐庶は、そこに在るだけで法正を惹きつけずにおかない。乱世を憂い、己に悩む愁眉は法正のこよなく愛するところだったが、近頃はそれが壮健な笑みに取って代えられることが多かった。
「お慕いしていますよ、徐庶。あの頃から変わらずにあなただけを。…あの頃よりも、ずっと」
 そう、たまらなく愛している。歴戦の体躯を包む軍袍の翠緑(ツイリュー)も、才智を秘めた瞳の瑪瑙色(マーナオスー)も。
「君は…一目見たあの日から、いっそう美しくなったね」
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