10/21の日記

10:16
こーうしんっ
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「日常」以外の更新が止まって久しい我がサイト。
ここでの戯れ言をコンテンツに格上げすれば、何とか更新したことにはなるなー…とか思ってる一階です。(笑


今日は、ずっと前から考えてたテーマについて、ちょっとだけ語ってみます。
「死」が平等かどうかについて。

まずは、「死」そのものが平等であるかどうか。
これは平等だと思ってます。
死ぬまでの経緯、死に方などに差異があろうと、「死」そのものは万人共通。
死ぬ、ということ自体は万人に必然に起こる現象なので、平等。


でも。ここに人間という主観(観測者の方が良いかな)が入ると、とたんに「死」は平等でなくなる。
何故なら、観測者は平等たる「死」に、色々なものを付加するからです。
前述した、死ぬまでの経緯、死に方などがそうですね。
その中でも一番大きな付加となるのが、「身近」であるかどうか。
自分の家族が亡くなるのと、学校の先生の家族が亡くなるのとの間に、差があるように。
日本人が死ぬのと、遠い国の人が死ぬのとの間に、差があるように。
「身近」であるかどうかは、「死」という重みを決める最も重要なファクターとなり得るわけです。



で。
ここでダーカーの話に持っていくんですけど。

基本的に、ダーカーの世界は、「死」そのものは平等なものとして描かれています。
それを象徴するのが、第一期のノーベンバーであり、黄であり、猫であり、アンバーであるわけです。(猫は例外かも知れませんが…。
第二期だとエイプリルですね。
あの衝撃の。(笑


ただ、人間を描く限り、観測者によって付加される「死」への差ってものがあるわけです。
例えば、一人称「僕」で描く物語なら、「僕」にとって「身近」な人間の死は重く、そうでない「死」は軽く描かれる。
三人称で描く物語なら、読者(アニメなら視聴者)にとって「身近」な人間の死が重くなる。

じゃあ、ダーカーはどうか。
…私の偏見かも知れませんが…。
どうも、「身近」かそうでないかに関わらず、全ての「死」において、平等であろうとする意志が感じられるような気がするんですよね。
そりゃあ、主人公やヒロイン、更には視聴者が存在しますから、ある程度の差はありますが、そこまで顕著じゃない。

これがすごく好きです。
私の思い込みかもしれないですけど。(笑

仲間の死や、重要な敵の死はものすごく重く描いて、その他の人間の死はまともに描きもしない。
そういうのは嫌いです。



身内だろうが犯罪者だろうが聖者だろうが殉教者だろうが、ただその「死」を「死」として、しかもそこそこの重みは持たせつつ平等に描くのは、非常に難しい。
ストーリーに関係ない「その他」の死が、軽く描かれる傾向にある戦闘系アニメで、「死」の重みの配分ってのは現代アニメの重要課題なのではなかろーか…とか思ったり。
……生意気なこと言ってみました、忘れて下さい。


やっぱわけ分かんなくなっちゃったじゃん。
あー…もっとまともな文章書けるようになりたい…。

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