Book・Z V
□夏模様
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大学生の夏休みは長いから。
いくつかのレポートと道場に顔を出す他に夏中これといってやることのないおれが、腐れ縁のコックの「バイトの子達が帰省しちまって店が回らねぇ」という言葉にその店でバイトを始めても、それは至って自然な成り行きだった。
牛乳をパックから直接飲み下しながらテレビを点ける。天気予報はここんとこ“猛暑”だ“酷暑”だとそればかり。
確かにそうだろう。
開け放した窓から入るのは決して風なんかじゃないもやもやとした何かだけ。
牛乳パックを握り潰してごみ箱へ放る。そろそろバイトへ行かなければならない。
玄関を出た瞬間の外は、容赦ない日差しと熱された鉄板のようなアスファルト、ぐらぐらと煮立ちそうな空気に満ちていた。
身体を焦がされそうだ。
数分歩けばシャワーを浴びたばかりの肌にTシャツはひっついて、首筋にはじっとりとした汗が吹き出る。
決して快い感覚ではないが、それに囚われない様考えを巡らせる。週末に道場へ来る子供達に次はどんな稽古をつけてやろうか――。
……できれば涼しいところで考えたい内容だが仕方ない。
心頭を滅却すれば火もまた涼し――
ふとそんな言葉を思い出す。
要は物事の全てが心の持ち様なのだと分かっちゃいるが。
いつになればそんな境地へ至るのかとつい溜め息が零れる。
そして今し方の溜め息は湿気た熱風に絡まるようにして溶けていった。
バイト先のレストランを視界の奥に捉えて、ぎらつく太陽も纏わり付く熱も週末の稽古も思考の中から徐々にぼやけていく時。
それでも未だ零れそうな溜め息を抱えるおれの心には、今からの仕事について考える以上に
ミサ、という女が存在する。
ミサは大学生で、たまたま同時期にバイトを始めた女。
そしてバイトを始めてからというもののほとんどセット扱いで、――人手不足も相俟ってまとめて新人教育、ということらしい――大概一緒に働いている。
割に流行っているらしいレストラン・バラティエは働く者にとって戦場と揶揄されるほどであるから、ミサとおれはバイト仲間で戦友、という様な関係だ。
そう、ただのバイト仲間、戦友――。
本当にただそれだけなら。
……分かっている。
本当にそれだけならこんなにも溜め息をつきたくはならないはずだってことくらい。
暑気と週末の稽古に対する思考が霞んでいくのに反比例して、どくどくと脈打つ心臓の真ん中辺りにはっきりとミサがいる。
気が付けばスタッフ用の裏口。
とにかく今からは仕事に集中しなければ。
鍵の役目を果たすらしい4桁の暗証番号を打ち込んで、ドアノブに手をかけた。
―――
「ゾロ、今日何時まで?」
客足も落ち着いてきたホールの隅で。
おれと並んで立っているミサは、口を動かさないようにして小さな声でそう言った。
「ラスト」
おれも最小限の開口でそう言った。
内緒事のような会話に少し気分が良くなる自分を心底餓鬼臭ぇと思う。
「じゃ、一緒に帰ろ」
そう言ってちらりとおれを見上げたミサはあどけない笑みを浮かべていて。
おれは何気ない風を装って小さく頷くのが精一杯だった。
―――
口にしようとすれば使い古された言葉ばかりが喉の奥に絡まる、この心の内。
紡ごうとすればするほどに陳腐な想い。
たかが二文字の感情に惑って、乱される
うだる夏の心模様。
fin