Book・Z V

□晩夏にて想う
2ページ/2ページ



蝉の鳴く声が耳に張り付いて久しい。

時折吹く微かな風に何とか秋の香りを感じとっても、髪が首に纏わり付く不愉快さが掻き消してしまう。



大学に入って初めての夏休みは気が付けば残りわずか。


わたしはこの夏をレストラン・バラティエに捧げた。



そして、わたしはこの夏、


「ミサ、水出し頼む。おれは皿引いてくる」
「うん、わかった」


恋に落ちた。





ホールを見渡せば、お客様の服装も色のトーンが落ち、テーブルに並ぶ食事やドリンクも徐々に趣を変え。

そういえば数日前の閉店後、サンジさんが秋の新メニューに頭を抱えていたのを思い出す。


季節はゆっくりと着実に巡っていき、色彩を変えていく。


――のに。


わたしの恋だけは、紫陽花の咲く頃と全く同じところで止まっている。


店前掃除をしていたゾロの、夏の陽射しに反射するの白いシャツをちらりと見掛けたあの頃や、


一緒に帰ろう、と勇気を振り絞って言ったあの時、


夜道、隣に並んで歩くゾロの瞳に真っ直ぐな光を見たあの瞬間。



その全てを思い出す度に胸を綿で締め付けられるような、そんな痛みというには余りに甘い感覚を覚える。



この感覚だって変わらない。

色を奪い得る夏の日光でさえ、この感覚を奪い去ることはできそうにない。



わたしは一体いつまでこうして進むことも戻ることもせずにいるつもりだろう。




客足が止まったのをいいことに、ホールの隅で何回巡らせたか分からない思考に陥り、


「……はぁ、」


自然と漏れた溜め息に


「――おい、溜め息ついてんじゃねぇよ」


いつの間にか隣にいたらしいゾロから思いがけず返事が返ってきた。


「てめぇらしくもねぇ。……ミサ、最近どうした」


「え……、」
「ふとした時にぼうっとしてやがる。隠してるつもりかもしれねぇがな」


「……ごめん」
「いや、謝ることはねぇよ。仕事は抜かりなくやってるだろ。ただ……、まぁ、なんだ。……おれにできることがあれば言え」


「ゾロ……、ありがとう」
「おう」



優しく降る飾り気のない声や視線は、それが全て本心なのだろうと妙に確信を持ってしまうほど真摯で。

身体の中の真綿はまたわたしの心臓を締め付けた。
それは脳も締め付け始めて、思考をじわり奪おうとしていく。




「――ミサちゅわぁぁん!!賄いができたよぉぉーー!!!」


厨房の奥から聞こえたサンジさんの声で我に返る。


「今日はひよこ豆でグラタンを作ってみたよぉぉぉ!!!!題して“かわいいミサちゃんのための、おれ特製ひよこ豆グラタン”!!!」
「ありがとうございます!今行きます」



お先に賄いいただいてくるねとゾロに告げると、


「おい。ミサ、ひよこ食うのか。ひよこってニワトリの子分だろ?あれ食えるのか。美味ぇのか。後で教えろ」


あどけない顔で無邪気に問われたわたしは、


「……分かった」


と、かわいい質問には訂正を入れずにホールを後にした。



血液は随分前から首より上に集まっていたらしい。
わたしの皮膚は染められているだろう。
空調が効いたホールにいた割に頬や耳が異様な熱さ。



紫陽花の咲かない頃へと気持ちを巻き戻すことはもう絶対に不可能だと、
いつの間にか速くなっていた鼓動に確信した。




ならば進むしかないと。

覚悟を決める。



蝉の声がなくなる前に、夏の色が見えるうちに、秋の香りが濃くなる前に伝えよう。



至ってシンプルな、二文字の心を。


fin
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ