Book・Clap
□そんな時間
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「ありがとうございます。またお越しくださいませ。」
バイト先の小さなカフェ。
雨足の強い午後七時。
客足は途絶えて、静かな時間がやってきた。
“安らげる時間を”というコンセプト通りの雰囲気は、わたしにも安らぎを与えてくれる。
ほぅっと息をついて、テーブルの片付けへ向かった。
雨足は更に強く、ガラス越しに見る通りに人影はない。
抜けていく肩の力、しっとりとした手触りの陶器、遠い国の緩やかな音楽の合間に響く、カシャカシャという厨房からの金属音。
目は冴えているのに、眠りに落ちる前のような心地よさがこころへ訪れる。
「お客さんいなくなっちゃったね。」
いつの間にかホールへ出ていたコック兼パティシエのサンジさんは、暢気な声で続ける。
「今日店終わったら新しいケーキの試食してくれねぇ?」
お客さんのいない静かな時間も、ベッドの上で微睡む時も、わたしの思考の主役はこの声の持ち主。
「はい。もちろん。今日はどんなケーキですか?」
「自信作だぜ!未だかつてない林檎のシブースト!!」
「美味しそう。楽しみにしてます。」
「そう言ってもらえるとやる気でるなぁ。あ、ゼラチン!!」
楽しそうに小走りで厨房に戻るサンジさん。
再び外を見遣ると、通りを横切る鮮やかな深緑色の傘がひとつ。
いつかそのうちわたしも、サンジさんの思考の主役へ躍り出られたら良い。
大雨の中、ぽつんと控えめに華やかな、あの傘のように。
軽やかな鼻歌が厨房から聞こえる。
甘く煮た林檎とこの恋心と、滑らかなカスタードクリームとあの声と、優しいタルト生地とこの空間と。
傘と願望と。
全部が重なって、舌の上で溶けていくような。
そんな時間。
fin