優しい刻


 仕事帰りのバスの中、僕を入れて5人の人が点々と座っていた。次のバスが最終という時間帯のためか疲れた様子で目を閉じている人が多かった。僕は一番後ろの席に座り窓の外を見ていた。対向車のヘッドライトと通り過ぎる街の灯りが目に映る。
(今日も一日が過ぎた)
 毎日、同じような時間が過ぎているような気がしていた。仕事と週末の時間をただなんとなく繰り返して。大人になると時間が早く過ぎると聞いたことがあるが本当にそう思う。
(子供の頃とどう違うのだろうか?この様子じゃ、あっという間に年をとって寿命が来そうだな。)
 ふと車内静けさを感じ辺りを見回すと、乗客は僕一人になっていた。考えている間にいくつかの停留所を過ぎていた。
 しばらくすると、車内に停車を知らすメロディが流れた。
「次は日の出公園前、日の出公園前。」
(え?。そんなバス停あったっけ?)
 僕は、バスのフロントガラスを見つめた。見覚えのある景色が流れていたが、その景色がどこなのか思い出せなかった。
(どこを走っているんだ。)
 辺りを見回していると、突然、景色が金色に流れるように輝きだした。
(現実?夢?)
バスは光輝く空間の高速道路を走っているかのようだった。僕は運転手に今の状況を聞きたかったが、ただ流れる景色にとまどうばかりでどうしようもなかった。
 四方を見ていると、少しずつ景色の速度が落ちている事に気がついた。金色に輝いていた景色が現実的な景色へと変わっていった。
 それと同時に、バスの速度が落ちていることも感じた。
やがて普段通りにバスは停留所に止まった。
 静かだ。エンジン音も、車内や車外の音も聞こえない。僕は今がどうなっているのか聞きたくて、運転席へ歩いていった。
(誰もいない)
今までこのバスを運転してここまで来たのにおかしいではないか。
 すると、前後にある乗降者用のドアが開いた。
 僕は車内の階段を降りバスの外へ出た。
 外に出た瞬間、外気の蒸し暑い空気が身体にまとわり付いてくる。深夜だというのに、わずかなセミの声が聞こえる。車も通ることなく人気のない公園の前に僕は立っている。
「嘘だろ・・・?」
思わず声が出た。
 その公園がいつも通勤で通る公園とはあきらかに違っていたからだ。公園を照らす街灯は裸電球で周りの道もアスファルトで舗装されていなかった。遊具もブランコとコンクリートの滑り台があるだけだった。
 そう、今見ている公園は、僕が子供の頃にあったものだった。
(いったいどうなっているんだ。わけがわからない。)
 僕はベンチに腰掛けた。目の前に広がっているのは、記憶の一部でしかない昭和の世界。
 (タイムスリップ?アインシュタイン博士もびっくりだよ。)
 疲れのためか、僕はベンチに横たわり、空を見上げた。
(子供の頃に見た夜空に思えた。そうだよな、大人になって夜空をゆっくり見ることなんてなかったような気がする。)
 僕は小学生の頃、天文に興味があった時期があった。親に頼み込んで、やっとの思いで天体望遠鏡を買ってもらい、毎晩星を見ていた。星座や惑星を見て、宇宙の広さや不思議に心をときめかせていた。
(なつかしい夜空だ。)


ジリジリと気温が上がっていくのを肌に感じていることがわかった。
「んー?寝てたのか。」
 まだ、瞼を開けられない。夜中とは比べものにならないくらいのセミの合唱だ。
「暑いなー。」
 まぶしい日差しに、僕は起き上がって目を開けた。目に入ったのは公園の水飲み場。僕はゆっくりと歩いていき、蛇口をひねった。
まだ温度が上がる前の水を両手に受け、顔を洗った。
 「どうすれば、いいのだろう。」
蛇口をもとに戻し、下を向いた。
 しばらくすると、公園に少しずつ子供たちが集まりはじめた。子供の首にはハガキ大の用紙がぶらさがっている。
「ラジオ体操の出席カード!?」
 夏休みに入ると町内の子供に配られるものだ。
僕は早起きするのが苦手で、いつも呼びにくる友達の声で起きてた。
 子供たちの輪の中心のラジカセからラジオ体操のメロディーが流れはじめた。
体操をしている子供たちを見ていて驚いた。
「僕じゃないか!?」
 そこには小学校の野球部の帽子をかぶった幼い頃の僕がいた。
「そうだ!間違いない」
 Tシャツに短パン。あんな服装だった。
「なつかしいなー。」
 信じられない光景に不安がっていた僕だが幼い自分の姿を見て、表情がやわらんでいった。まるでビデオ映像を見ているかのようだ。
 体操が終わり、カードに出席の印をもらうと、子供たちはそれぞれに帰っていった。僕は自分の後を付いていった。
「ただいまー。」
 そう言って、縁側から家の中に入って行った。
「おかえり。」
 家の奥から祖母の声がする。
(ばあちゃん。)
 死んだ祖母の声を聞くなんて、僕の視界が涙でさえぎられていく。


日差しが少しずつ強くなっていくが、まだ早朝のせいか日陰にいると、時々吹いてくる風が気持ちよく感じられる。僕は自分の家の近くで、ただ待っていた。
「行ってきまーす。」
 僕の声だ。家の中から再び出てくると、車庫の中に入っていった。
(そうか、シロがいるんだ。)
 子供の頃、雑種の犬を飼っていた。あまり散歩に連れて行った記憶がないが、外出する時はいつも声をかけていた。散歩にあまり行かなかったのは、きっと怖かったせいだ。散歩は夕飯後に暗くなってからで、あの頃はまだ野良犬が多く、散歩に連れて行くとすぐにケンカが始まり、時には噛まれたりしたこともあった。だから夜の散歩はなるべく行かないようにしていた。
車庫から出てくると、自転車で出かけていった。野球のユニフォームを着て前のカゴにはグローヴが入っていた。
(部活かな?)
 それを見た僕は、小学校に向かって歩き始めた。今はすっかり変わってしまった景色が広がる。子供の頃と背の高さが違うせいだろうか、遠く、広く見渡せる気がした。登下校で通る田んぼや用水は子供たちにとって遊び場でしかなかった。
 昆虫や魚を取ったりして・・・。
 (今の子供はどうなのだろう。都会に住む子供は、アスファルトの上を歩き、車や建物しか見ないのかもしれない。土や緑の匂いを感じない子供も少なくないのかもしれない。)

 学校に着いた僕は、野球部が練習している校庭を金網越しに見た。部員達の声が響いている。あの頃僕は、ただがむしゃらに白球を追っていた。大好きだった野球に一生懸命だった。
 大人になった今はどうなのだろう、何かに一生懸命になっているのだろうか?
 生きて行くために仕事をして、毎日家に帰り、次の日また出かける。その繰り返し。限りある時間なのにいたずらに費やしているのではないか。
 今、目の前で野球をしている幼い自分が輝いて見える。いつからこの輝きを失ってしまったのだろうか。
「すいませーん。」
 子供の声声がした。
 僕の足元にボールが転がってきた。そのボールを手に取った。
 すると1人が走ってボールを取りにきた。子供の自分だった。10メートルくらいの距離だろうか、グローヴを構えていた。
「いくよ!。」
僕は声を出し、そしてボールを投げた。
「ありがとうございました。」
 幼い僕は、僕が投げたボールをキャッチすると帽子を取り、頭を下げて言った。
 奥は手を上げた。自分が自分にボールを投げるなんて。
守備やバッティング練習を終え、グラウンドをランニングする頃には、辺りは夕焼けに染まっていたが、セミが鳴き、まだ蒸し暑さが残っている。
「ありがとうございました!!」
 部員全員が帽子を取り、先生とグラウンドに一礼をしている。
 当時は慣例化していて何も深くは考えなかったような気がする。でもこうやって外から見ていると礼儀正しく、日本独自のスポーツマンシップがそこにあるような気がする。
数人ずつのグループに分かれ、校門を出て行く子供たち。部活の練習で疲れている様子もなく、笑顔で話しながら帰る姿が印象的だ。
 そして、家の前まで来ると友達に手を振っている。
「バイバイ。」
 そう言うと、子供の僕は家の中に入って行った。
 その姿を見ながら、友達も手を振り返したいた。
 
 しばらくすると、声が聞こえてきた。
「早くご飯を食べて、お風呂に入りなさい。間に合わないよ。」
 急かす、祖母の声。
「わかってるって。」
 そう聞こえると、家の中を騒々しく動いているのがわかった。
 (何かあるのかな?)
 すると、僕の前を浴衣姿で子供を連れた家族が通っていく。辺りを見回すと、一組だけではなかった。
 (そっか、盆踊りがあるんだ。)
 お盆前の週末に町内の盆踊りが行われていた。子供の頃、友達と会ったり、夜店で食べたり遊んだり、楽しみだった。
大人になった僕は、そんな機会は失っていた。自分に子供がいれば違っていたかもしれないが・・・。
「早く、早く。」
 玄関から、子供の僕が出てきた。家の中を向いて、手招きをしている。そして、その先から祖母がゆっくりと出てきた。
 この日が祖母と行った最後の盆踊りだった。
やがて、盆踊りの音が大きくなり、蒸し暑い夏の夜が始まった。
 僕は二人の後を付いていき、会場である公園に着いた。屋台が並び人混みにあふれている。あちこち見ている間に二人を見失ってしまった。
(あれ?どこに行ったのかな。)
 僕は人混みの中を探した。まるで見失った自分自身を探しているかの様に。金魚すくい、輪投げ、ぼんぼん、焼きそばにたこ焼きといった屋台が続く。
(懐かしいなゃ。)
すれ違う人の中には見覚えのある顔もあった。みんなあの頃のままだ。僕だけが年をとって、この場所にいる。
(見つけた。)
 射的に友達と夢中になっている僕を見つけた。その後ろには祖母がその姿を見つめていた。僕は思わず声をかけてしまった。
「お孫さんですか?」
急に声を掛けられた祖母は少し驚いた様子で僕を見た。
「ええ。どちらさまで?」
何て答えればいいのか、一瞬考えた。
「時々、学校の野球部でキャッチボールをしています。」
思いつきで答えたが、迷って言葉を探しながら話していることが気づかれているような気がした。
「それは、お世話になっております。」
「いいえ、こちらこそ。活発で元気なお孫さんですね。」
頭を下げていた祖母は顔を上げ、僕を見て笑った。
「ありがとうございます。元気だけがとりえですから。」
(はは・・・、そうかもしれない)
 そう言うと、祖母は子供の僕の方を見て言った。
「いつまで、あの子を見ていられるのかねー。」
僕は知っていた。祖母がいつまで生きていられるのか。そして、この先、僕の成長と共に起こる出来事も。僕にとっては思い出だが、今は未来の出来事なのだ。
「大切ですよね」
「ええ。孫バカと言いますか、今では自分の子より可愛くてね。私の生きがいです。」
そうなんだ。僕は子供心に理解していた。両親が共働きだったせいもあり、祖母の愛情を強く感じていた。
「成長したらどんな大人になるのでしょうね。」
少し微笑みながら祖母は言った。
(目の前にいる大人になるんですよ、おばあちゃん。)
どう答えればいいのかわからなかった。仕事や恋愛に悩み、生きていく理由すらわからない今の情けない自分。それに比べ無邪気に走り回り、1日、1日を楽しく過ごしている子供の自分。それを生きがいとして過ごしている祖母。
「きっと立派な大人になりますよ。」
僕には精一杯の言葉だった。もちろん祖母の顔を見ることはできなかった。
「そうだといいけどねー。これからいろんなことがあると思うけど
、人様に迷惑をかけず、元気に乗り超えて行ってくれれば。」
「大丈夫ですよ。」
 そう答える僕だが、この頃から後にかけての自分を振りかえると、よくそんなことが言えると思った。でも祖母は、この頃、そう願っていたのだ。


「おばあちゃん。」
 子供の僕は、両手に景品を待って、嬉しそうに走ってきた。何をするにも子供はよく走る。好奇心のせいなのか、早く結果にたどり着きたいのか。大人になると、結果がわかっているせいか、目的に向かって走ることがあまりない。
(そうなんだ。)
 大人になって失うものの1つかもしれない。先入観や経験にとらわれて、前に進むことを恐れるそうになる。子供の頃は見えない先に希望が見えていたけど、大人になると、悲観的に決め付けてしまうことが少なくない。そして行動しなくなる。何もかも無理だと勝手に決め付けてしまう。いつからか、そう考え何もしない自分が嫌いになっていた。
「これ、捕ったんだ。」
誇らしげに話している。
「よく取れたねー。」
 褒めるように祖母は言った。子供の成長には褒めることが必要だと聞いたことがある。自身を持たせることが大事で、子供は褒められると嬉しくなり、さらにがんばることができるらしい。たしかにそう思うが、子供に限った話でもないと思う。
(夜店の景品ではねー。)
「あれ?」
 子供の僕は、突然僕の方を見て言った。
(ヤバ。)
 僕のことを知らない、なんて言われたらどうしよう。今まで祖母に話していたことがバレてしまう。
「キャッチボールのおじさん?」
不思議そうな顔をしている。
「こんばんは。」
余計な間を与えないように話を進めようと思った。
「すごいじゃない。」
「へへ・・・。」
笑顔に戻った。
「なんでおじさんがここにいるの?」
「えっ?あぁ、学校の子たちを見に来たんだ。」
「ふーん。」
なんか、ぎこちないのが悟られているような・・・。ふと祖母の顔を見ると何かに気づいたように笑っていた。
「おじさん、そろそろ行くよ。」
この場を早く去りたかった。
 すると、子供の僕は、左手にぶら下げている袋の中を何やら探しだした。
「これ、おじさんにあげるよ。」
手に取り出したのは、硬式の野球ボールだった。それには、プロ野球選手のサインが入っている。もちろん自記筆ではない。
「ありがとう。でも、いいの?」
「うん、いいよ。」
よくサインを見ると、当時、自分の好きだったプロ野球選手のサインではなかった。
(だからか。)
「おじさんは行くけど、これから先いろんなことがあるけど負けずにがんばるんだよ。」
「うん。」
笑顔で答える子供の自分の頭を左手でなでた。
「では、お邪魔しました。」
僕は祖母に向かって言った。
すると、祖母は少し間をおいて話始めた。
「大きくなったねー。」
「え!?」
僕は、思考も身体も固まるような気がした。ぎこちない仕草のせいでバレたのだろうか。
「あのー。」
「最初に見た時からおかしいと思ってたんだよ。この子の面影があったからね。」
 祖母は左手を口元にやり笑いながら話し、目は僕の全身を確かめるかのように見ていた。
「おあばちゃん、友達と遊んできていい?」
子供の僕が突然、割って話し出した。大人同士の話は子供には退屈な時間だったのだろう。
「いいよ、でも遠くには行かないで。終わったら戻ってくるんだよ。」
「うん。」
 背を向けて人混みの中へ走って行った。盆踊りもクライマックスに近づいてきたのだろか、やぐらには人が増え盛り上がっている。近くにいる人でさえ、少し大きな声で話さないと会話できないくらいだ。
 正体がバレた僕は、素直な気持ちになって祖母に話すことができた。
「怖くはないですか?僕は自分がなぜここにいるのか、考えると怖くなります。」
「怖くはないわねー。世の中には不思議なことがいっぱいあるから。ただ思ったのは神様が私にくれたプレゼントじゃないかってね。」
祖母は怖がるどころか嬉しそうに話した。
「なぜ、そう思うのですか?」
「ずっと祈ってきたからね。」
そう言うと、子供の僕が走っていった盆踊りのやぐらのほうを見た。
「あの子が生まれてからずっと、この子が大きくなっていく姿を見ていたいと願っていました。それまで生きていられるのか。それが今、大きくなったあの子が見られるなんて、怖がるものですか。」
「おばあちゃん。」
 僕は呼んだ。
「おばあちゃんは、これからもずっと僕が成長する姿が見られるよ。僕が・・・。」
 僕は、ハッと思い言葉を出すのをやめた。祖母がいつまで僕の姿を見ることができのかを伝えようとしたからだ。
「フフッ。いつまで生きられるのかしら。大きくなったあなたは判っているわよね。」
 僕は答えに困って下を向いた。
 その様子を見て祖母は言った。
「困らせたわね。いいのよ、いつまで生きられるかなんてどうでもいいことだから。ただ、少し気になっただけ。」
(どうでもいいこと?)
「なぜ?ですか。」
「人はね、誰でもいつかは死ぬものなの、長く生きたいと誰でも願うけれど、結局は自分で決められることではないわ。ただ、できるのは1日、1日を一生懸命に生きていくことだけ。私は、あの子との時間を大切にするだけ。」
 祖母からそんな話を聞くなんて思わなかった。考えてみれば、早くに祖父を亡くして女手で子供を育てあげた後、孤独だったのかもしれない。そんな時期に生まれた孫の僕を生きがいと感じていても不思議ではない。でも子供の頃は躾は学んだ記憶はあるが、祖母の考えていた人生論なんて聞いたことがなかった。
「びっくりしたよ。おばあちゃんがそんな話をするなんて。」
「あなたも年を重ねていくと解ってくるわ。若い頃は欲望の海を泳いでいるようなもの。それに伴って、多くの苦しみや悲しみがやってくる。でもある時、気がつくわ。あなたがもがき苦しんで泳いでいるところは、大きな海の中のほんの小さな部分。そこを抜け出して大きな海を泳いでいくには、自分を信じて前へ進むしか無い事に。」
 その通りかもしれない。まだ若い僕には多くを実感できないが、狭い範囲でもがいているよな気がする。祖母の言葉はなんとなく理解できる。
「何かに迷っていたのでしょう?そんな顔をしてる。子供の頃から変わらないわね。」
「そうなんだ。仕事や恋愛、思うよにいかない。どうすればいいのかわからなくて。」
 僕は自分の心の扉を開けようとしていた。いままで誰にも打ち明けられなかったことを、不思議にも大人になって出会った祖母に話そうとしていた。
「自分の思うように進んでみたら。」
「え?」
「あれこれ考え過ぎず、自分らしく行動すればいいの。若い人が失敗を怖がってどうするの。」
 盆踊りのにぎやかな音や光も僕は感じることができないで、ただ祖母の話を、自分の中で噛み砕いて消化しようとしていた。
 社会へ出てからずっと、思い悩んできた。自分の周りに悩みを相談したりしたが、答えはいつも自分とは反対だった。すべてが否定され、自分の歩きたい道をブロックされているような気がしていた。やがて僕は他人に自分を語らなくなり、心を閉ざしていった。
そんな僕にとって祖母の言葉はずっと探していたものだった。

そして辺りは、音楽が止み太鼓の音が消え、人々の話声だけになった。皆、笑顔だった。誰もが心に傷を負っている、悩み、苦しんで生きていくなが普通などだ。だからこそ人は短い幸せな時間を大切にできるのかもしれない。
 そして、日常生活を忘れ、歌や踊りを楽しむことができるのが夏の風物詩、盆踊りなのだ。楽しいのは子供ばかりでけではない。

「おばあちゃん。」
 家路に戻る人混みの中から声がし、子供の僕が笑顔で戻ってきた。
「おかえり。楽しかったかい?」
「うん。おばあちゃん、帰ろう。」
 そう言うと、祖母の手を引っ張った。
「はい、はい。でもちょっと待って。」
 祖母は、引っ張られていた体勢を戻すと僕に近づいてきた。
「今日は幸せな時間を過ごすことができたわ、ありがとう。迷い苦しいことがあっても、精一杯生きていって欲しい。あなたならできるわ。これが私の遺言よ。」
 優しい言葉使いだった。
「おばあちゃん。」
「僕こそ、育ててくれてありがとう。」
 そう言うと、祖母は笑顔を見せ、子供の僕に引かれ人混みの中に入って行った。時々、人の間から二人の後ろ姿が見えた。
 僕は込み上げてくる感情を抑えきれなかった、涙で前がよく見えない。
(こんなに泣くなんて、いつ以来だろう。)
 二人との別れなのか、今まで自分が心にしまってきたことに対する涙なのか、よくわからない。ただ感じたのは、自分自身に素直になれた気がしたことだ。大人になって周りを気にしたりして感情を表に出さなくなっていた。それが今、周りなど気にしないで顔をクシャクシャにして泣いているではないか、我慢するのではなく、ただ泣きたいから泣いている。
 自分の心に素直になれた証拠だ。

 そして、僕は再び公園のベンチに座った。
目の周りが腫れてるようだった。片手で顔を覆い、僕は祖母と最後に話したことを思い出した。
 その日、祖母は体調を悪くして救急車で病院に運ばれた。慌てて面会へ行くと、祖母は僕を他人と間違えて話始めた。
「俊くん、俊くん、よく生きてたね。あの火事の中、本当によく生きてた。」
 そう言った祖母の笑顔は、今までに見たことがなかった。
 後に母から聞いたが、俊くんという人物は戦時中に亡くなった祖母の弟の名だった。戦争が直接の原因の火事だったのかは、はっきりしないが、若い頃、弟を亡くしたのは確かだった。
 祖母の声を聞いたのは、それが最後だった。今思うと、祖母は僕を自分の弟と重ねながら育ててくれたのかも知れない。病気で僕と自分の弟を区別できなかったことは複雑な気持ちだが、最後に最高の笑顔を見せてくれた。
 それから時が過ぎ、僕は祖母の最後に”ありがとう”と伝えられなかってこと心のどこかで悔やんでいた。それが今日、信じられない出来事の中で”ありがとう”と感謝の気持ちを伝えることができた。

 しばらくして、僕は落ち着きを取り戻したせいか辺りで鳴く虫の音が聞こえてきた。
(もう夏も終わりに近づいているんだ。)
 そう思い、ふと辺りを見回すと、公園の道路に面した所に一台のバスが止まったいた。車内は明るく光り、まるで暗闇の中にある希望の光のようだった。
 人影は見えない、ベンチを立ち、吸い込まれるかのように僕はバスに乗り込んだ。
 (静かだ。)
 何も音は聞こえない、人の気配もない。僕は一番後ろの席に座り、一息ついた。するとバスの扉が閉まりやがてゆっくりと走り出した。
 窓の外を見ると、子供の頃に見た町並みだった。裸電球の街路灯には虫が飛び、ペンキで描かれた商店の看板。
(懐かしいな、あの頃はこんな風だったな)
 バスの窓に肘をついて、外を眺めていた僕はいつの間にか眠ってしまった。

「お客さん、お客さん。」
バスの運転手の声で目が覚めた。
「お客さん、終点ですよ。」
「あ、すみません。」
 眠気眼で慌てて返事をした、僕意外に乗客はいない。僕は運転手に頭を下げバスを降りた。
「終点まで来ちゃったよ、はぁ。」
 ため息が出た。家へ帰るのに五つのバス停を戻らないといけない。
 (これが現実だな。さっきまで見ていたことは夢だったんだ。しかしリアルな夢だったな。)
 祖母や子供の自分と出会ったのは後悔の念からくる気持ちが見させた夢だったのだろうか。
「さぁ、がんばって帰るか。」
 歩き始めると上着のポケットに何かが入っていることに気がついた。
「何?」
 ポケットの中に手を入れて触ってみると驚いた。それは野球のボールだったからだ。
 立ち止まってボールを手に取った。
(夢じゃなかった。僕は二人に会って来たんだ。)
 泥に汚れたボールを見つめた。
 僕は過去を旅して自分の人生の中で、一番自分にとって優しかった時間を見てきた。
 きっと誰にでもあるのだと思う、人生の中の優しい刻が。でも毎日の生活の中で忘れて、思い出す機会を失ってる。事実、僕もずっと忘れていた。でも気がついた。いや、気づかされたのだ。過ぎた時間の中に多くの大切なものがあるということに。

 僕は軽くボールを夜空へと投げた。夜空には、あの頃と変わらない星が輝いていた。落ちてきたボールを取りポケットにしまうと僕は家へと歩き出した。
 自分自身の過去とキャッチボールをした不思議な夜だった。

 
 おわり




















 


 
 
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