*うたプリ留置場*

□四月十日の観覧車
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「やっぱ、締めは観覧車だよね!」

楽しい時間は過ぎるのが早い。気分は朝、ついさっき入場ゲートをくぐったばかり。だけど立ち止まって見上げた空には夕焼けの朱が一面にくっきり染み込んでいて、その強さに目が眩む。同時に一気に現実に引き戻される。時間を忘れていつまでも夢の世界ではしゃいでいたい、そんな子供じみた妄想はさっさと捨てろとでもいうみたいに淡いオレンジのヴェールが4月10日という日にゆっくり幕を降ろし始めている。今日の終わりが近付くにつれて静かに、でも確実に心の隙間をじわじわと浸していく物寂しさを振り払おうとして、俺はわざと元気な声音でそう投げかけた。

「悪くはありませんね。今日は朝から歩きっぱなしでしたし、私もそろそろ脚を休ませてもいい頃合いだと思ってたので」

隣でふっ、と笑うのはトキヤ。口では余裕の素振りだけど、その綺麗な顔に滲んでいる疲れの色は隠しきれてなかった。そりゃそうだ、小さな子供じゃあるまいし、俺たちは遊園地で朝から晩まではしゃぎ回っても元気があり余るほどタフじゃない。俺なんて、明日からは大人の仲間入りをする歳だというのに。

「だよね!よし。そうと決まれば早く行こう!俺先に並んでくるねー!」

「なっ……また一人で勝手に!待ちなさい!音也!」

慌てたトキヤの声は聞こえないふり。ダッシュで観覧車の麓まで駆けて行き、ちんたら歩いてくるトキヤに向かって列の最後尾から大きく手を振ったら、ちょっとして俺の隣に並んだその人にあなたは本当に落ち着きがありませんね、とお小言をくらった。自分でもよくわからない。けれど、とにかく動いていないといてもたってもいられなかったのだ。一度動きを止めてしまったら最後、迫ってくる何かに追いつかれそうで。


4月10日。俺とトキヤは遊園地に来ていた。平日の金曜日だということもありさすがに園内が人でごった返しているということはなかったが、そこはやはり有名所、今日もそれなりの数の人々がアトラクションを姦しく彩っていた。しかしこの時間になると昼間と比べてだいぶ人の数は少ない。観覧車の列の流れもかなりスムーズで、俺たちはさほど待たずに乗り込むことができた。

「よっこいしょ、っと。あ、トキヤそっち側座るの?」

「当たり前でしょう、カップルでもあるまいし。あなたの隣など誰が好んで座りますか」

「トッキーのいけず!あ、こっち側ってトキヤより先にてっぺんに着くんだ!やったね。へへっ」

「観覧車で向かい合った距離など取るに足りないものでしょう。あなたが何を競っているのか知りませんが頂上に着くのはほぼ同時ですよ、残念ながら」

「あ、出たトキヤの負けず嫌い。俺に先越されて悔しいんだ」

「……はぁ? くだらない、あなたと違ってそんなことで対抗心を燃やすほど私は子供じゃありませんよ」

「えーっ、違くないよ!俺だって明日から大人だもん!」

「でしたら相応の振る舞いを心がけて欲しいものです」

相応。そのトキヤの一言は、妙な重みで胸に張り付いた。同時に粘着面からは、漠然とした不安のような冷たさがぬるっと染み込んでくる。

「……。……大人、相応の振る舞い……かぁ」

気を紛らわそうと何気なく窓の外に目をやったところで、眼下に広がる景色に思わず釘付けになった。俺たちが軽口を叩きあっている間にも観覧車はかなりの高さまで移動していたらしく、今や見えるものすべてがミクロサイズのおもちゃだ。

「見なさい音也、人がゴミのようです」

「…………。えっと」

「冗談ですよ」

「トキヤが言うと冗談に聞こえないよ……」

「なんです、誰しも一度は言ってみたい台詞でしょう」

ちょっと拗ねたように眉を寄せ、ふいっと窓の方を向いてしまうトキヤ。頬と耳の縁が微妙に赤いのは、夕日のせいにしてあげる。
心地よい無言の時間に揺蕩いながら、俺はぼんやりと思いを巡らせる。昔のトキヤからは決して窺えなかった類の表情だ。可愛いなぁ、みんなが口を揃えてトキヤは表情が豊かになった、っていうのも納得だ。だって以前ならこんな年相応の素直な表情、少なくとも俺たちの前では意地でも見せようとしなかったから。共に過ごした時間の中で、トキヤは本当にいい方向に変わったなと思う。昔よりずっと丸く、柔らかくなった。長い睫毛に縁どられた藍の瞳はその鋭さこそ変わらないものの、コクとまろやかさが当社比三割増ぐらいにはなったかもしれない。そっぽを向いていても綺麗なトキヤの横顔を眺めながらしみじみ思う。
……幸せだなぁ。
普段の澄ました表情がこうやってくるくる変わるのを見てるのは楽しいし、生き生きしてるって感じる。何より今、俺がそうさせてるんだって思うと頬が緩んじゃうぐらい嬉しい。
嬉しいよ、トキヤ。


「……ん、そういえば……なぜ唐突に遊園地に行こうなどと思い立ったんです? それも4月などという忙しい時期に」

突然思い出したようにトキヤがさっと向き直る。しかし何故だろう、今まで舌の上で持て余していた言葉を投げかけられたような違和感を覚えた。
ともあれ俺は慌てて視線移動、外の景色からトキヤの顔へたった今目を移したかのような小細工をしてみせなければならなかった。ずっと見つめていたのがもしばれてたらどうしよう、内心ひやひやしつつ顔には自然な笑みを浮かべるという芸当を一瞬のうちにしてのけた自分を我ながら褒めたい。

「うーん、なんていうか……俺、明日誕生日じゃん。
俺も明日からは大人なんだぁ、って思うとつい寂しくなっちゃって。なんか……子供時代にさよならするみたいでさ」

「何を言うかと思えば……いいですか音也、子供や大人といった区切りなど、私たちの便宜上の呼称に過ぎないんですよ。生物学的な確固たる境界線が存在するわけでもないのですし、あなたがなぜそれに執着するのか理解できかねます」

「いやー。ただほら、気持ち的に、ね。……あと、ちょっとだけ不安かも」

今日をもって子供が終わることへの、そして、明日には大人と呼ばれるようになることへの不安。
それは、自分が子供のとき、自転車に補助輪無しで乗れるようになった瞬間の心細さにどこか似ていた。自転車の後ろを持って支えてくれていた人がいつのまにか手を離してることに気付いて初めて、不安定で危なっかしくてぐらぐらよろよろ転びそうではあるけど、ようやく自分ひとりで目の前に伸びる道を走り出せるようになったんだという事実を痛感する。好きなときに好きな所へ、どこでも行ける、どこまででも行ける。世界がぐんと広がった気がした。これからの期待に胸が膨らんで、ワクワクが止まらなかった。でもまだ完璧に乗りこなせるようになったわけじゃないから、いつどこで転ぶかわからない。誰の目も届かない所で不慮の事故に逢うかもしれない。拭えない不安。自転車乗り始めの子供ならではの、言い知れぬ心細さ。

初心者マークで走り出す自分を、誰かに見守っていてほしい。

……明日成人を迎える俺は、ちょうどそんな気持ちだった。
大人って聞くと、一気に視界が開ける気がする。行動範囲も広がるし、できることも格段に増える。だけど、「大人になる」ってことに対してまだ実感なんてないし、心の準備もできていない。いわば離しちゃダメだよ!ちゃんと後ろ持っててね!絶対離さないでよ!状態だ。だから俺の小さな身体一つでうまく世の中を渡っていけるのか、心配で堪らない。実際今までアイドルとして生きてきて、仕事上の色々なミスや失敗も、子供だからって大目に見てもらっていた部分が多いのは事実だ。それが大人になって子供という免罪符が剥がれたとき、一体どうなってしまうんだろう。いや、その考えこそ甘いのか。わからない。荒波に揉まれ、削られ、それでもちゃんと息をして、芸能界という過酷な世界で生きていけるのだろうか。
二十歳を目前にして、今更弱気にぐずつく心を叱り飛ばしたかった。頼りない自分の足でも、しっかり地を踏みしめて、堂々と前を向いて、未来が不安な子供の俺に、俺は立派に大人やってるよ!って笑顔でピースサインを見せつけて、そっか、なら大丈夫だね、ってちゃんと安心させてあげたいのに。……なのに。
現実の俺は、高い所に上っただけの、ただのバカだった。
観覧車に乗って非日常の視点を味わえば何かが変わるかも、なんて能天気に思っていた数時間前の自分が恥ずかしい。
ちらりと外を見る。頂上はすぐそこに迫っていた。

……まだ、何も、変わらない。

あと数時間で、この不安も迷いも全部消えて、晴れて明日を迎えられるんだろうか。

一十木音也は、ちゃんと大人になれるんだろうか。

行き場のない不安ばかりが募る。
らしくないねと笑ってみても、気分は少しも晴れなかった。

「大人になるってまだ実感ないなぁ、本当に。子供でいていい残り時間はあと少しなのに、俺、その間にちゃんと大人仕様に変われるのかな。あー……なんか心配だなぁー。ねえねえどう思うトキヤ」

「…………。馬鹿ですかあなたは」

返ってきたのは、もう見慣れすぎて微笑ましくなる域に達したトキヤお決まりの反応。いただきました、本日のスペシャル溜息わざと風。ついでにシェフの得意料理、呆れ顔も添えられた。
そして締めはビシッと、しなやかな人差し指が鋭い眼光とともに鼻先に突き付けられる。

「まずはその落ち着きのなさ。次に呆れるほどの能天気さ。そして信じ難いレベルで底抜けの明るさと騒がしさ。これが変わる、と?……ふっ、笑わせますね」


……なんだ?
俺が首を傾げると、トキヤはちょっと言葉に詰まったような顔、居心地悪そうに視線を泳がせる。微妙な間の後、トキヤは俺から目を逸らしなぜか俯き加減に、でも口調だけはいつもの通りつんと澄まして、

「たった一晩でそれらが変わるわけないでしょう」

と一言。

「どういうこと?」

「そのままの意味です。あなたが何を気負っているのか知りませんが、今更いくら悩んでもなるようにしかなりませんよ。あなたが明日をもって大人になるという事実は変わらないのですし、何より、あなたは19年間直感と感性だけで生きてきた人間と言っても過言ではない。私としては認めたくありませんが、実際それでなんとかなってきたのなら、これからもあなたの人生は同じように進んでいくんじゃないんですか」

トキヤはあくまで淡々と。しかしその声音には、ほんの少しだけ、俺のことを心配してくれているような色が見え隠れしていたように思う。……自惚れてもいいよね、トキヤ?

「……時々、あなたの直感バカさ加減が羨ましいと思うことさえあります。私が理屈でいくら考えても辿り着けない場所にあなたはなんとなくの一言で容易く壁を飛び越えて行き、いち早く本質的な答えに着地する……ある意味一種の才能でしょうね。悔しいですが、あなたの勘が気味の悪いほど異常に冴えていることだけは認めます。まぁ、それだけで万事うまくいくかと言われたら簡単には頷けませんが、あなたならどうせ難局もその図太い根性で乗り越えるんでしょう?」

ですよね、音也?
挑戦的な笑みで、トキヤは念を押すように確認してきた。
……これは煽りか。ならば──

「ああ、もちろん!」

威勢良く頷いたところで、トキヤが小さく息を飲んだのち、ふふっ、と我慢しきれずといった様子で含み笑いを漏らしたのを見た。

「どうしたのトキヤ」

「いえ……。ただ、いつもの音也だな、と」

「…………?」

何がおかしいのか、トキヤは片手を口元に当て、俺の目の前でくすくす笑っている。しかし俺に見られているのに気付くと、きまりが悪そうに目をそらし、仕切り直しとばかりに咳払いで表情を締めてしまった。

「あてもなくうじうじ悩むだけ無駄ですよ、音也。今さら何が変わるっていうんです。予測できない未来のことを今あれこれ考えたって、それこそ杞憂に終わる可能性も高いですし。
はぁ……本当にわかりません。なぜ考えもなしに生きているようなこんな人間が世の中をうまく渡っていけるのか。謎です」

本日二度目の溜息。そうしてトキヤは膝に頬杖をつき、おもむろに俺の方に身を乗り出した。一気に顔が近づく。思わず仰け反る俺。すると斜め下からトキヤが不満げな視線を寄越してくる。拗ねた瞳がまるで幼い子供のそれのようでつい吹き出すと、図らずも目の前の相手の気分を害してしまったらしい。トキヤの目が不服そうにつっと細められた。
へえ、位置的な自然の産物とはいえ、トキヤの上目遣いって……なんというか、結構、

「なぜよけるんです」

「へ!?……あ、ごめん、つい」

それがあまりにも綺麗で、ちょっとだけドキッとした──なんて絶対に秘密だ。自覚がないのだろう、俺に向けられるトキヤの眼差しは明らかに不審者に対するそれで。

「中腰で仰け反ったまま言いますか、傷付きますね」

「あ!ご、ごめん」

俺がおずおずと腰を下ろすと、不意にトキヤは少し考える素振りを見せた。そして何か意を決したように、

「音也」

片手をちょいちょい、と手招きのポーズ。……これはどういうことだ。さっきから頭の中はハテナだらけ、しかしとりあえず従ってそろりとトキヤの方に身を乗り出してみる。
相手の透き通った瞳が微かに揺れるのもはっきり見えてしまう、そんな距離でトキヤは。

「……らしくない私たちは、今日だけですよ」

私……たち?
囁いてさらに接近、そっと右手が伸ばされる。
その意味を察するより早く、頬に伝わるのは温かい手の平の感触だった。

ドクン、心拍数が跳ね上がる。近い。顔が近い。近すぎる。
トキヤは俺の頬を手の平で包むようにして、至近距離でじっと、俺の瞳を捉えて離さない。何をされるでもなくそのまま静止すること、数秒。いや、十数秒だっただろうか。いずれにせよ俺にはものすごく長い時間のように感じられた。その、くっきり長い睫毛の奥。緩いまばたきの度に穏やかな光を揺らす、切れ長の双眸。俺の心の奥の奥まで見通すような藍の深さ。射抜かれる、……時が止まった。
爆ぜる心臓に反して頭はフリーズ、俺はただアホみたいに目をぱちくりして人形みたいに固まっているしかなかった。少ししてトキヤの手が頬から離されたのにも気付かないまま、俺の身体はしばらく金縛りにでも逢ったみたいに動かなかった。



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