*恋姫留置場*


□月華流雲 薫風煌稟
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それは、まばたきを一回するうちに見逃してしまいそうな、ともすると気のせいだった、と言ってしまえばそれまでの、本当に一瞬の隙だった。だが、その「ほんの一瞬」に何故だか妙に捕らわれて、知らず知らず愛紗の顔をまじまじと見つめてしまっていたらしい。
「ご主人様生きてるー?」の声とともにひらひら揺れる桃香の手が視界に飛び込んでこなかったら、俺は日が暮れて愛紗がその場から姿を消しても顔ひとつ動かさずどこか一点をギンギン見つめ続けたあげく、「何やってんの気持ち悪い」と桂花あたりに罵倒される運命を迎えていただろう。助かった。

「……な、何ですか、さっきからこちらをじっと見て。私の顔に何かついているとでも?」

ああ、幸せそうな表情がなーー愛紗も自覚はあるのだろう、僅かに赤く染まった頬が何よりの証拠だ。
途端、ふつふつと嬉しさが沸き上がってくる。何だかんだ言いながら、愛紗の心も俺たちと同じで穏やかに安らいでいたわけだ。
ようやく訪れた幸せを噛みしめていたいと思うのは、君主であろうと、軍師であろうと、将軍であろうと、天の遣いであろうとお気楽な天然娘であろうと生真面目な堅物ちゃんであろうと……
……誰だって、同じなのかもしれない。

「しかし愛紗よ。ずばり言わせてもらうがーー」

「……はい、何でしょう」

「演技下手すぎ」

「……は、はい…………はあ?」

上半身をムクッと起こし、ビシッ! と人差し指を愛紗に突きつける。彼女の頭上にたくさん見えるハテナマークに関しては、申し訳ないが今は無視させてもらおう。
今は、ど下手な役者を舞台からひきずり降ろすのが先決だ。……多少強引でも、この際仕方ない。
だって、幸せそうに緩んだ顔で「気を抜くな」なんて台詞を言っちゃう女優、どう考えても使い物にならないではないか。
そんな大根役者はさっさとしっかり者の役を降りて、二度と舞台に上がらせないようにするべきだ。

「気を引き締めろー仕事しろーなんて言われても、言ってる本人がぼーっと惚けてちゃ説得力ゼロだよってこと」

「はあ!? わ、私がいつ惚けていたというのですか!」

「え? さっき幸せそうな顔でぼーっとしてたじゃん」

「……う、そんなこと……は、」

あ、図星だ。黒曜石の瞳がうろうろ、目に見えて落ち着きがなくなってきた。その様子に桃香がくすっと笑いをこぼし、更に落ち着きを失う愛紗。視線が空をさまよい、俺と目を合わせないようにしているのが丸わかりである。ここまできたらもう少しだ。桃香が小声で、「頑張れ〜」と囁いてくれる。
俺はわざと不安そうな声音を作り、こわごわといった感じで尋ねてみた。

「愛紗……幸せじゃないの?」

「え!? え、あ、いえ、けけ決してそういうことでは……! し、幸せに決まっています! 望んでいた平和が訪れたのですから、幸せです!!」

予想通りの反応だ。顔の前で両手をぶんぶん、顔を真っ赤にして愛紗は否定のポーズ。俺がさりげなく話題のすり替えをしたことに気づいていないあたり、相当混乱しているのだろう。
戦場でのあの勇ましさはどこに行ったのやら……幼い子供のような可愛らしい動揺に吹き出しそうになるも、ここは大事なところ。ミスは許されない。込み上がる笑いをぐっと堪えて、最後の一押し。

「平和が訪れて、愛紗は幸せなんだろ? そしたらさ、別に自分を偽らなくてもいいと思うんだけどな」

……戦争中じゃ、あるまいし。

「幸せなら幸せ、でいいじゃん。折角訪れた平和なんだから、素直にそれを満喫して何がいけないの? って思う。もともと俺たちの頑張りで掴み取ったものなんだし、味わっとかないともったいないよ」

戦乱の世を生き延びるためには、自分を偽り、優しい心を無理矢理押し潰してでも戦う必要があったーー必要を強いられていた、といった方が適切だろうかーーそうしないと、自分が殺られてしまう。それは、乱世に身を置く者なら誰しもが痛いほどにわかりきっていることだった。

けれど、今は違う。
戦争は終わり、ようやく平和な時代が手に入った。
自分を偽ってまで生きていく必要や理由など、ありはしない世界のはず。
それならば、たまには肩の力を抜いて、素直に幸せに身を委ねる日があってもいいのではないか。普段が真面目な愛紗だからこそ、なおのことだ。あまり気を張ってばかりだといつか潰れてしまう。戦争中だったらそうもいかなかったかもしれないが、とにかく今の世は平和だ。少しくらい気を抜いたって、どうなるものでもないだろう。

……俺は一気に、それだけのことを愛紗に伝えた。
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