コンクール用

□天使の配達
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 大学の一階フロアのテラス前に大きな掲示板がある。
 ここには学校側からの様々な連絡やお知らせが記載された用紙が貼られているが、生徒たちの個人的な勧誘の張り紙やサークルへの参加を呼び掛けるチラシなどジャンルを問わず、ボードが見えないほど貼り付けられていた。

 マックスの作った張り紙は掲示板の下の方の隅にあった。
  『配達物を届けます』と書かれた用紙には、三月にスイスに帰国する際に家族や友人に届けたい物があれば代わりに私が届けますというような内容の文章が日本語、英語、ドイツ語など数ヶ国語で記されていた。
 もちろん、マックスは日本語が書けない。俺が彼に代わって書いたのだ。ご丁寧にふりがなまでふって。

「ハイ、マックス!」
 彼を呼ぶ声に振り返るとマックスと同じ学部に所属するトミーが小さな箱を持って歩いてきた。

「やあ、ジュンペイ」

「ハーイ」
 ルームメイトが外国人のおかげで外人風の挨拶は身につけたつもりだ。ハーイ。軽い感じで抑揚を付けて、ハァーイだ。
 俺の隣にいるマックスに小箱を手渡し、ドイツ語のような言葉で会話が進んでいる。マックスは三カ国語の言語を話すことができるという。スイスはドイツ語とフランス語が使用されており、一般的に英語は基礎中の基礎でほとんどの国民がマスターしているらしいのだ。彼は日本語もマスターしたいと常日頃公言している。四カ国語を話せる人間をマルチリンガルと呼ぶんだとマックスが教えてくれた。
 五カ国語は何リンガルなんだ?リンガルだか、カンガルーだか何でもいいが俺は彼が日本語ができるようになれば、それでいい。
 面倒な質問が減れば、それでいい。

「またね、ジュンペイ」

「バーイ」
 トミーに返事をして手を振る。気さくでいい奴だ。日本語も上手で、飲み会では日本酒を瓶ごと飲むほど酒好きな男だ。

「ハレ」
 手の中の小さな箱を俺に見せてマックスはにっと笑う。

「どこだよ?」

「ドイツ」
 呆れたように俺は首を振った。また仕事を増やしている。人の為にここまでやるとは彼の善意の心に神様も驚くだろう。

 マックスは長い足を折り曲げて自分が貼った張り紙の前にしゃがみ、空になっているボックスに触れた。

「トミーが張り紙を見た時には、すでに用紙はなかったようです」
 気軽に留学生たちが故郷に配達するものをマックスに依頼できるように、彼のアイデアで張り紙の下にメモ紙を入れたボックスをつけたのだ。俺たちの家の住所と氏名を書いたメモ用紙である。
 日本語で書かれたメモ用紙はボックスからすべて消えていた。

「切り取られていたのは―」
 俺の台詞の後をマックスが続ける。

「僕のファーストネームですね」
 謎めいている。
 なぜ彼の名を切り取ったのか。
 彼に郵便物を頼むのなら、彼の名こそ必要なはずではないのか。
 何をしてほしいのか。何を望んでいるのか。張り紙を穴が開くほど見つめても、送り主の目的は何一つわからないままだ。

「なぁ、マックス。この張り紙を見て送ってきている手紙なら、中身を確認するべきなんじゃないか」
 俺はしゃがんでいるマックスの横に座り、彼の顔を覗き込んだ。

「依頼人の許可をもらわずに中身を見ることはできません」
 彼は堅い表情のまま視線を張り紙から動かさない。

「なぜカタカナなんですか?」
 俺が書いたメモ紙の彼の名のことを言っているのだろう。低い声が一層低くなっている。

「マックスの名前、難しいだろ。俺単語覚えるの苦手なんだ」

「Maxim・Gabriele。何度も教えましたよ、僕は。ルームメイトの名前は覚えてほしいです」
 少し怒ったように言うマックスは、勢いよく立ち上がり、その長い腕を胸の前で組んだ。俺も慌てて立ち上がる。

「僕は、ジュンペイの名前は覚えました。漢字も書けます。名前を覚えないのは失礼なことです。そして、人の手紙を勝手に見ることも失礼なことです」
 静かだがその低い声は怒りを表していた。
 俺に謝るタイミングも与えず、彼はそそくさとその場を後にした。掲示板の前に一人取り残された俺は大きくため息を吐くことしかできなかった。

 彼は決して短気ではない。感情をあらわにして大声で怒鳴ることもない。彼は、目的のわからない依頼に困惑しているだけだ。
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