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寡黙と憂鬱に咲く[10]


17.
「おっと」

先に我慢の意を消したのは高杉だった。
ホテルの一室に入ると、漸く望まれた空間にありつけた解放感からか、眼前の銀ハを全身が求め、衝動的にひしと抱きついた。

「は、どうしたよ…」

珍しいことしやがる、と銀ハも意表を突かれたのか、思わず苦笑を浮かべていた。
だからなのか、そのあと高杉を包囲した腕は、獣欲に満ちたものではなかった。
傷の部位を避けるようにして、力強く抱きしめられた。

「………」

心地よい体温を保った男の胸からは、穏やかな心臓の音が聞こえた。
時折頭を撫でられるせいか、高杉は性欲よりも寝心地になってしまう。
それは酷くなつかしい感覚で、最初に他の誰かにそうされた時と同じ新鮮さと、安堵感があった。

抱き合っている時間はどれくらいだっただろうか。
少なくともその時間は、他人に肉体のみしか開けぬようになった少年に、ほんの少しだけ、あたたかい兆しを与えていた。

「ベッド、行くか?」
「…うん」

遠慮がちに銀ハのほうから尋ねてきた。
腕の中の少年が、あまりに赤ん坊のような寝顔をしていたのだろうか。
口づけられると、その口づけもいつになく長くなった。
人同士がキスを交わすことの意味を、不意にしみじみと考えたのはこの時が初めてだった。

「まだ痛むのか?」
「少しだけど」
「見せてみろ」

ベッドの上に向いあって座ると、服が擦れて一瞬高杉が目を細めたのを、銀ハは見逃さなかったらしい。
その場で上半身だけ素肌になるが、相手に肌を曝すと、より人肌恋しくなるようで、眼前の男に引き寄せられるように寄り添い首に腕を絡めた。

「そんなのより、早く…」

ぽろりとそんな言葉が出ると、銀ハが吹き出すように笑った。

「お前なあ…エサちょうだいで、ほいやるよじゃ、全く躾になんねえだろ」
「む…」
「まあ可愛くてよかったよ、今のは」

突き離す物言いだったが、本人は満更でもないようだ。
背中をまず見せろ、と命令口調の中にも幾ばかりか柔らかみがあった。

「いいじゃねえか、コレ」

その第一声はすぐに発せられた。気に入ってくれたらしい。

「椿だな」
「うん」
「椿に毒針突き立ててる蜂、か。なかなか卑猥じゃん」

自分と同じ解釈を銀ハもしてくれた。
社会では不浄とされる自分の一部を、この男はいつもあっさり受け入れてくれるから、妙に嬉しかった。
だからこの男の傍は、居心地がいいのかもしれない。

「ねえ…」
「ん?」
「早く、抱いて」
「………」

真摯な眼差しを銀ハに突き付けると、彼は表情も言葉も沈黙したままだった。
それが動揺の裏返しとは、高杉も気がつかなかった。

「どこ触ってほしいか、言ってみな」
「…ココ」

デニムの中で、言葉にするまでもないほど堂々と挙手しているそれに、高杉はそっと指を宛がう。
すぐに触れてもらえると期待に溢れた面持ちで男を見据える。

「服の上から?」

手を動かす気配すら見せずに、そんな言葉だけが返ってきた。拍子抜けした。

「服の上からで、いいのか?」
「そ、それは…」
「ちゃんと説明しろよ」

声音は落ち着いているものの、今の高杉にとっては厳しい処遇だ。
いつものように強引に向こうから抱いてくれるセっクスとは違う。

「直接触って…」

俯き加減に、やっとの思いで伝えた。

「てめえで脱いで、どこだか正確に言えよ」
「そんな…銀ハが脱がせて」
「脱げっつってんだろ」

呻くように叱咤された。見ると、銀ハはすでに目の色を変えていた。ああ、獣の目だ。
この目に睨まれれば、高杉は否応にも彼の“言いなり”になるしかなかった。

「脱ぐ、から…」

間接的に蹂躙されているようだった。
高杉は呼吸を乱しながら、ぎこちない手つきで、ベルトを解いて細身のデニムを膝まで引き下ろす。
足首でもたついていると「早くしろ」と静かに一喝され、慌ててそれを脱ぎ取り、床に投げた。
透明度の高い二の足は、綺麗な曲線を描いていて、芸術でも見るような目で銀ハは少年の身体を眺める。

「下着は?」

高杉の手はデニムを脱いだ時点で止まっていた。
男の前で肌を曝すなど何てことないはずだが、今は一枚脱ぐだけで羞恥心が湧いて出てくる。
すでに耳の付け根まで赤い。

「ねえ、お願い…」
「何が」
「銀ハがして…」
「帰ってもいいんだぜ、俺は」

興ざめだ、と腰をあげようとした銀ハに、高杉は顔色を変えてすがりついた。

「待って、脱ぐから、自分で…」

よほどその時余裕がなかったのかもしれない。
迫りくる衝動に頭が追いつかないくらい、あまりにワケが分らなくなって、下着を脱ぐことに必死になっていた。
全裸になると、何度めになるのか銀ハの身体にぎゅっと巻きついて、捨てないで、とでも言うようだった。

「脱いだから、ね、触って…」
「だから何処を」

振り落とされた言葉は、実に冷たいものだった。

「ココ…わかるだろ…?」

明るみに喉から手が出ている印を、二本の指で撫でてみせる。
これでいいだろ、と懇願の瞳で銀ハを見上げるも、彼は表情を黙々とさせていた。

「どう触ってほしい?てめえで実践してみせろよ」
「え……」
「出来ねえなら」
「し、しますっ」

思わず、そんな口調になった。
股の間に手を入れ、小振りながらも硬くなっている性茎を握りこんで、ゆっくりと上下に擦った。

「は…ぁ……」
「そんな緩い触り方でいいのか?」
「っ」

高杉は頬を染めて泣きそうな面持ちになった。
これでは自慰に浸っているところを、男に観察されているだけではないか。
弱っている高杉を見兼ねてか、銀ハがやっと身を乗り出してきて、一物を力なく握る高杉の手を掴み、

「っあ!」
「こうだろうが」

愛撫に勢いをつかせた。

「だ、ダメっ…そんなに強くっ、ああっっ」
「ダメ?気持ちヨクなりてえんだろ?」
「や、イっちゃ…」
「オナってイっちまうのか?俺がぶち込むまでもねえな」

耳元でせせら笑われると、高杉は小刻みに首を横に振る。

「銀ハ、ので…っ」
「俺の?」
「銀ハのを、挿れて…」

成熟したそこは自分の手で愛撫させられながら、もう一方の手を銀ハの首に回す。

「挿れるって、何をどこにだ?日本語が足りなさ過ぎてわかんねえだろ」

根元まで握りこませられて、高杉は悲鳴をあげる。

「ち、ちンぽ…を…っ」
「ん?」
「銀ハの、ちンぽを…お尻の穴に挿れてっ」

ふと、高杉の手から銀ハの手が離れる。
戸惑いを貼りつかせたまま見上げると、銀ハは笑みを浮かべていた。

「四つん這いになって待ってな」

そう言うと、彼はベッドからおりてソファに向かった。
突然の不可解な行動に、高杉はきょとんとして男の背中を見つめる。
彼はソファに置いてある鞄を漁り始めた。
次の瞬間、取り出したものに、高杉は目を丸くした。


「それは…?」


残酷なものを見るようだった。
銀ハが手にしたものはピストルの形をしていて、本来銃口の部分は、黒光りした男の象徴に成り変っていた。


「本物みたいだろ。これでも玩具なんだぜ?」


愉快そうな表情が、逆に高杉を追いつめた。まさか、それを挿れる気では。
獲物を“撃ち抜く”ための道具を掌で遊ばせながら近づいてくる銀ハに、高杉は逃げ腰になった。

「おい、四つん這いになれって言ったはずだが」

銀ハが目を細め、怒気を含んだ声で言った。
遠のこうとした足首を掴まれ、腰を無理やり返された。

「や、やだ」
「いいからケツを突きだせ!」

髪の毛を掴まれて怒鳴られると、高杉はすっかり畏縮してしまう。
そうこうしているうちに犬の格好にさせられ、菊座のあたりを銀ハの指が行き交う。
入口を開かれると、明らかに人の体温ではない機械的な触感が宛がわれた。
待った、をかける前に、強引にこじ入れてきた。

「痛っ、痛い…っ」
「そうかな」

含みのある言い方をされると、暫くして自分でも驚くほど、潮が引くように苦痛が去っていくのを理解する。

「あ…」
「自分でもわかってんじゃねえのか?お前のココは、どんなモンでも受け入れちまうってことだよ」

以前の自分なら、同じ言葉を吐かれても、遊戯として受け入れられたはずだ。
確かにそうだ。好きでもない人間の欲望をどれだけ許したと思う。
それを生きる理由にもしたし、意味もなく誇示していたに違いない。


「俺のじゃなくてもいいんだろ?お前は」
「………」


お前が欲してるのは俺じゃない。
はっきりと告げられたその言葉の節々には、少なからず愁えさえ感じられた。
誰のものでもいいのか。違う、と、喉まで出かかった。

「あっ、あっ、あっ、そん、なっぁああっ」

埋め込まれた玩具が、高杉の中で暴れだした。
スイッチを入れると、ピストンをする仕組みらしい。
ドリルのような凶暴な音を立てて、まるで自分の身体に穴があけられているようだった。

「と、とめてっ、とめてええっ」

ぼろぼろと涙がとめどなかった。
苦の感情は覆されて、やがては自分が“これまで求めていたであろう”快楽の渦にのまれていった。
中から水が生まれたように溢れだしていく。
目を見開いたまま、高杉は只管絶叫していた。
イってしまう。

「ほら気持ちイイんだろっ?こんなオモチャでケツの中をぐちゃぐちゃにされちまってさ。何とか言えよ、このド淫乱がよっ!」
「ひっ」

ピストンの速度を上げる機能がついているらしく、一気にあげられた。内臓に食い込んだかと思う。

「ああっ!ああっ!ああっ!許してっ」
「うるせえよ。さっさとイっちまえ」

片方の尻朶を叩かれて、高杉は過敏に跳ね上がる。
その拍子にぐっと奥深くが串刺しにされて、呆気なく達してしまった。

無理強いされた到達の反動はあまりに大きかった。
シーツの上に滴れる白濁を確認すると、玩具が引き抜かれると共に、放心状態の高杉の身体も崩れ、
腹と背がひっくり返った。
が、シーツと背中が触れることはなかった。

「………」

寸前のところで、銀ハの腕が庇っていた。


「…大丈夫か?」


漠然とした視界がうつしたのは、“元の”銀ハだった。

「起き上がれるか」
「…う、ん」

肩を抱かれて、座の姿勢に直る。先刻の余韻が、まだ高杉の意識を迷わせる。

「悪かったよ」
「え?」

高杉は銀ハをまじまじと見返す。言葉の意味が全く汲み取れなかったのだ。
思わず目を反らしてきたのは銀ハのほうだった。まるで自分の行動を恥じるようにだ。

「シャワー、先に浴びちまうか」
「…え、うん。俺はどっちでもいいけど」

どうも噛み合ってなく、高杉は曖昧な返答しかできない。
ベッドから立ち上がってそそくさと浴室に入っていく銀ハに首を傾げながらも、それも気のせいだと自身に納得させた。

後れて浴室に邪魔すると、銀ハがすでにシャワーを浴びていた。浴槽には湯が溜めてあった。
高杉に気付くと「使っていい」とシャワーを渡してきて、さっさと湯に浸かってしまう。
違和感を覚えつつも、沈黙に只管身を置き続けられたのは、傷口があまりに沁みたからだ。

「湯には入れねえんだろ?」

静けさを裂いたのは銀ハだった。彼は高杉が浴槽に入るスペースをさりげなく空けていた。
刺青は渇いて色が落ち着くまで、部位を避けて湯につからなければならない。

「2週間くらいは様子見ねえと…」
「大変だな」
「でも冷えるから、半身は浸かりたいかな」

銀ハの親切心を汲み取るつもりだった。
こちらが身体を一通り洗い流したのを見届けるや否や、彼はさらに後ろにもたれかかって、縄張りに誘ってくれた。

遠慮がちに浴槽に足先を入れる。
銀ハと顔を合わせる形で胸下まで温めた。
湯加減はよかったが、数分空気に曝していた両肩が一気に冷えた。浴室内の温度が低いことに気がつく。

「寒いんだろ」
「ん、これくらい平気…」

しきりに肩をさすっていたから気付かれたらしい。
手の桶で湯をかけていれば凌げる程度だと言ったが、銀ハは納得いかないのか顔を綻ばすことはなく、突如思いついたように、
高杉の手首を掴み、引き寄せると、自分の首周りに巻きつけた。

「背中が浸からなきゃいいんだろ?」

銀ハはほぼ仰向けの状態になる。その上に高杉が重なった。
両肩はきちんと湯に守られていて、傷口の部分はかろうじて顔を出していた。

「寒くねえか?」
「…平気」

若干生温くなった水面下で、全身がぴったりとくっついていた。
彼の体勢が窮屈だろうと、途中で身体を離そうと思ったが、力強い両腕に抱き寄せられているせいでびくともしない。

言葉のない時間が流れていた。
不思議な感覚がしているのは自分だけだろうか。
今自分を包む体温が妙にあたたかく、優しすぎるくらいだと思うのは、銀ハに対して、冷酷で、かつ暴力的な印象が強すぎるせいだろう。

(冷酷なのか…)

自分はそんな部分が気に入っていたに違いない。
しかし同時に、それと相反するような仕草にさえ、少なからず情を動かされそうになる瞬間がある。
こんなふうに、頭を撫でられてしまうと。


「ひとつ、聞いていいか?」


唐突に銀ハが口を開いた。高杉は顔だけ銀ハに傾け、「何」と言った。
思わず顔を見たのは、ずいぶん改まった切り出しだったからだ。
そのあと、少し間が合った。

「俺が所帯持ってなかったら、お前逃げなかったか?」
「え?」

あまりに変化球だった。
そんな質問をされるとは思いもよらなく、高杉は反応らしい反応が出来なかった。

「随分そのこと気にしてただろ」
「………」

急になぜそんなことを聞くのだろう、という疑問符しかなかった。
質問者である銀ハが高杉と目を合わせようとしないのは、高杉の答えに何処か不安がっているようにも取れた。

銀ハが父親という立場でなければ、恐らくもっと違う関係になっていたのではないか。
初めて抱かれた時から、自分は確実にこの男に惹かれていたし、この男だって自分のことを気に入っていただろう。
セっクスをする上での最高級の相手というだけで、そんな表面的な関係で終わるかもしれないが、もしかしたら、と、
密かに『夢』という言葉を温めていた自分もいたのではないか。

だけど。

「質問の意味が、よくわかんねえんだけど…」
「………」

脳裏を掠めたものに、高杉は首を横に振り、そんな言葉が口から出てしまった。
銀ハが苦笑する。

「愚問だったな」

自分でも、なんでこんな質問が浮かんだのかわからない、と言うのだ。
そのときお互い避けようとしている問題は、何となく一致している気がした。
だから高杉はそのまま黙りこむしかなかった。
身体から腕が離れた。

「そこの壁に手つけよ」
「壁?」

急に話題が方向転換して、高杉は鈍く聞き耳を立てる。
すぐ後ろのタイルの壁に両手をつくように言われたようだ。

「挿れるの?」
「そんな気分だ」

相手を蹂躙するにしては、柔らかい視線で言われた。
鬼畜で獰猛なじゃれ合いを求めている自分は、気遣われた抱かれ方は恐らく嫌いなのだろうが、
銀ハのそうした変化に悪い気がしないどころか、実はそんな愛撫を心底欲していたかのような、
以前の自分なら吐き気を催すほどの、甘い感情すら実感すれすれで抱いていた。

出来れば顔を見て。
そんなふうに思ってしまったが、心に内在している幾つかの自分のうちの一人が、それを呆気なく阻止した。
お前は面倒な感情は抱くな、と言うのだ。どちらが逃げ道なのかは分らない。

「ン…ああぁっ」

壁に手をついたあと、ほぼ間髪いれずに密門は侵入を許した。
侵入者は数知れずで、もともと門番など居ていないようなものだったが、今はまるで歓迎客を前にした御もてなしをしていた。

「っと…サウナみてえになってんぞ、お前のナカ」
「ん…しい…」
「ん?」

顔を近づけて、高杉の継ぎ接ぎの言葉を聞き取ろうとする。

「ほしい…もっと中まで」
「…いいぜ。俺を興奮させる言葉を、ちゃんと言えたらな」

違う。いつもの脅迫じみた声ではない。
その証拠に、今の自分は誰かに犯されている、という感覚とはまた違う心境に置かれていた。


「銀ハを、いっぱい…、感じさせて…」


無意識だったに違いない。
自分でも呆れかえるほど、どん底でもない、売女のような厭らしさもない、何の面白味もない言葉だった。
だがどういうわけか、マゾヒズムの血が逆流するのとは違うものが、体内で静かに溢れ返った。


「めいっぱい感じさせてやる」


銀ハの声が暖かった。
深々と貫かれると、高杉は総身を痙攣させながら絶叫する。

「ああんっ、もっと、もっとちょうだいっ」
「どんなふうにだ?言えよ晋助。俺に色っぽく懇願してみろよっ」
「っ、ぐちゃぐちゃにしてっ、中のもの、ぜんぶ、掻きまわしてっ」

自分をこんな下種にしたきっかけ全てを、記憶の中から抹消してほしかった。
きっと楽しかった。人を誑かしたり、自分の身体に夢中にさせる遊戯は、それなりに。
しかしきまって、嘔吐感すら覚える惨めさがあって、それを飼いならしていられる自分が、また惨めで。
自分は本当は、何の魅力もないんだよ、銀ハ。
お前ももしかして、お前自身のことをそう思ってるんじゃないだろうか。

「ああっダメ…もうダメっ」
「イっていいぞ、俺も、そろそろ限界だ…っ」

吐精の兆しを見、高杉は不意に首を後ろに傾ける。
自分を貫いているこの男と、キスがしたかった。

視線がかち合うと、銀ハが突然動作をやめて、身体を返してきた。
背中が浴室のタイルすれすれのところに押しやられ、後頭部を掴まれると、煙草の香りが口内に漂った。

「んんぅ…!」

深くそれは喉に入り込み、呼吸も定かではない中で揺さぶられ、高杉は果てた。
意識の沈黙の前に、晋助、と名前を呼ばれたのを微かに聞き取った。


18.
人と違う道を選んだ自分は、誰かには怪訝な顔をされ、また誰かには憧れの眼差しを向けられる。
それを良しとして、自分は何もかも捨てて、技術だけを只管雑巾を絞るように磨き続けてここにいるのだ。
夢を叶えた代償として、ある種の気の病や、人並み以上の苦悩を抱えざるをえないことも十分承知している。

だが時として、暗闇がたゆたっている場所に放り込まれることがある。
溺れそうになって藁をも掴む思いで、沖田はのたうち回る。


「姉さん…っ」


俺はこのまま、どうなっちまうんだろう。
死ぬのが怖い。こんなところで孤独死してしまうのが、どうしようもなく怖い。
きっと誰も自分の死は悲しまないだろう。

沖田は仕事以外での外部との繋がりを、これまでいっさい遮断してきた。
一途に自分の腕のみに没頭している、と言えば勲章的な響きなのだろうが。
『仕事』など、誰にも心を許せない故に身を潜めている、『逃亡者』という本来の名を隠すための名目だった。

「助けて、姉さん、苦しいよっ」

姉を力なく呼び続ける。唯一彼が心を開いていた人間も今は、亡き人だ。
他に誰かいないか。誰か話を、自分の苦しみだけでも聞いてくれる人間はいないか。

客人の中にも、もしかしたら自分を理解してくれそうな者もいた。
いや、考えすぎだ。過度な期待はしないほうがいい。
どうせ好奇心で近づいてくる連中だろう。
自分のこの有様を知れば、見て見ぬふりをして、二度と来ぬ人となるに違いない。

自分に年が近くて、この苦悩をあっさりと受け止めてくれそうな少年が、ふと頭に浮かんだ。
心を許してもいいのでは、と会話のうちに思ったこともあったが、沖田はそのたび、自身を叱咤していた。
あいつが人としての何かが欠落しているなら、自分と仲良くなっても、何かをきっかけにスっと離れてしまう可能性は高い。
あいつの中にも自分と同じ、“過度な回避思考”があるなら尚更だ。

「俺は、ひとりでも生きられる…」

これまでだって、ずっと一人で生きてきたのだから。
歯を食いしばって、床に吐いた少量の血液を、袖で拭いとった。


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