風絶幻夢 下

□第四拾参幕
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「はぁっ…はぁっ…っ…」
闇しか見えない、夜の街の屋根を走った。
少し高さを変えるだけで、町並みは消え、夜空が視界を埋め尽くす。
焦燥感の中で不安が揺れて、頭がおかしくなりそうだ。
体中が熱いのに、震えている。
「っ……はぁっ」
夜尋は真下の通りを伺いながら走った。
もうすぐ、油小路通りに着く。
「……!!」
人の声を聞きつけ、夜尋は足を止めた。
滑るように伏せ、屋根に体をくっつける。
「……」
息を殺して真下を伺うと、真っ先に目に映ったのは血の赤だった。
誰もいない通りに、伏せる動かない屍がひとつ。
「…っ」
思わず声を上げそうになり、夜尋は手で口をふさぐ。
油小路通りの中心に横たわるそれは、伊東の死体だった。
「──伊東さん!!」
野太い声がどこからか響く。
夜尋は一瞬身を強張らせ、目を閉じた。
駆けてくる数人の足音。
この足音は、きっと御陵衛士たちの…。
「…行くぞ」
「!!」
伊東に駆け寄る御陵衛士以外の声が、夜尋の耳を震わせる。
聞き覚えのあるその声は、いつもよりずっと低い。
…原田の声だ。
それを合図に、路地裏から浅葱色の羽織を纏(まと)った人影が現れた。
四方から約十人ずつ。
闇の中にも映える真昼の空色。
だんだら羽織を翻(ひるがえ)して、隊士たちは一斉に刀を抜く。
放たれた白銀の刃が、血を求めるように狂気を発していた。
彼らはたった十人弱の御陵衛士を、その四倍もの数で取り囲む。
「新選組……」
その声音に憎悪を含み、服部は刀を抜いた。
同時に、他の衛士も全員抜刀する。
月明かりを反射して光る、幾つもの刀身。
新選組に囲まれた御陵衛士に、勝ち目は無かった。
「死ねぇぇぇぇ!!!」
激しい怒声で、皆が一斉に動き出す。
「……」
屋根の上でうつ伏せた夜尋は、何もできずにいた。
目を閉じると聞こえる、戦の音。
「はぁぁぁぁっ!!」
叫び声、刀がぶつかり合う金属音、肉を断つ音。
「っ…」
今ならまだ、逃げられる。
誰にも見つからず、ここを離れることができる。
『平助を助けるなら──』
喧騒に耳をふさいだ夜尋の頭に、幾つもの声が響いた。
『オレ、お前を守るために戦う』
『じゃあ、何の為にここから出て行く』
愛しい声、懐かしい声。
自分は、何のために、どうするべきなのか。
『……じゃあね、夜尋ちゃん』
新選組を離れて、何がしたかったのか。
『だが、殺さなければ我らが殺されるのだ』
『…やはり、私に人の統率は向いていなかったようですね』
本当の正しさが、分からない。
誰を信じて、何を守ればいいのかさえも。
『おまえに向けられた思いを、どうして受け止められないんだ!!』
この時代で、誰もが必死に探す。
生きる意味──。
『だから、一緒にいてくれないか?』
──生きる場所。
「───っ!!」
ほんの一瞬、過去の思い出が溢れ出した。
夜尋は、ゆっくりと耳から手を離す。
するとすぐに意識が周りの喧騒に戻された。
「……!!」
激しさを増す戦闘の中、油小路の中心辺りに平助がいる。
彼は原田と永倉に囲まれていた。
息を切らし、体に幾つもの刀傷を負って。
「平助!!!」
夜尋は精一杯叫び、屋根の上から飛び降りる。
心なしか、今の一瞬で少し気持ちが軽くなった。
頭を埋め尽くしていた迷いが、消えている。
きっと、答えが出たのだろう。
「夜尋!?」
平助は目を見開いて夜尋を見上げた。
「平助っ」
空中で紅蓮と翡翠を抜き放ち、夜尋は平助と原田の間に滑り込む。
「おまっ…何で来たんだ馬鹿!!」
合わせた背中越しに、平助の焦った声が聞こえた。
「傍にいたいって、言っただろ!」
夜尋は振り向かずに答える。
そして、目の前の原田に剣先を向けた。
かつては仲間だった原田や永倉。
彼らに勝てるだろうか、殺すことができるだろうか。
「…やっと揃ったな。平助、夜尋」
夜尋の震える剣先を前に、原田は構えた槍を下ろす。
「え…?」
その後ろで、永倉も刀を下ろしていた。
「なかなか来ねぇから、平助だけ逃がしちまおうかと思ったぜ」
「逃がす…?オレを?」
「ま、絶対来るとは思ってたけどな」
全く状況をつかめていない夜尋と平助。
「俺たちは、近藤さんにお前らを逃がすように言われてんだ」
原田は優しく微笑む。
こんな戦場には似合わない笑顔だ。
「ただ、他の隊士には知らされてねぇから…遅くなってごめんな、平助」
どうやら、平助に刀傷を負わせたのは、その事情を知らない隊士たちらしい。
「左之さん…」
そして、平助と夜尋が気を緩めた刹那──。
「──!!」
すぐ近くの建物の影から、何者かが現れる。
纏う浅葱色の隊服で、それが新選組隊士であることが一瞬で分かった。
「平助!!」
その隊士は刀を振りかざし、真っ直ぐ平助に向かって切りかかってくる。
「っ!?」
闇夜に銀色の弧を描き、振り下ろされる刀。
とっさに振り向いた平助の胸から、鮮血が散った。
「平助っ!!!」
夜尋は平助の目の前の隊士に体ごとぶつかる。
「ぐっ…」
倒れこんで地面に強く頭を打ち、その隊士は気を失った。
「…平助、平助っ」
急いで平助に駆け寄り、抱き起こす。
原田と永倉も隣に膝を着いた。
「おいっ!しっかりしろ!」
致命傷ではないけれど、早く出血を止めなければ致命傷になってしまう。
「平助っ…」
苦しそうに目を閉じて、平助は必死に呼吸する。
だけど、彼が息をする度、傷口から血が溢れた。
「死なないでっ…平助!」
まだ、伝えられていない思いがたくさんある。
君と生きたい未来が、たくさんあるのに。
この声は、今の平助にどのくらい届いているだろう。
「……」
薄っすらと、平助の目が開いた。
痛みに歪んだ顔で、彼は笑う。
「っ…!」
「…好きだ……夜尋」
僅(わず)かに唇を震わせて、平助は紡いだ。
「だから……生きてくれ」
「…平助…っ」
夜尋の瞳からこぼれた涙の雫が、平助の頬に落ちる。
「夜尋、お前は逃げろ」
突然に、平助の体が夜尋の手から離れた。
見上げると、原田が小柄な平助を抱え上げている。
「でもっ…」
「平助は絶対死なせねぇ。だからお前もこんなところで死ぬな」
「!!」
その時、夜尋の脳内に伊東の声が蘇った。
「鴨川を…北上…」
何かあればそうしろと、先日彼に言われている。
それを思い出し、夜尋は立ち上がった。
「またいつか、会えるさ」
「…うん」
夜尋は涙を拭って頷く。
そして、原田たちに背を向け、鴨川へと走り出した。
 

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