風絶幻夢 下

□第四拾四章
1ページ/1ページ


斬り合いの音に背を向け、鴨川へ走る。
しだいに月を覆う雲が厚さを増し、夜の闇を深くした。
「…っ」
血の赤がまぶたにこびり付いて離れない。
頭で何も考えられず、ただひたすら足を踏み出す。
そして、鴨川へ出たところで足を止めた。
「…はぁっ…っ」
肩で息をしながら、夜尋は北方を仰ぎ見る。
そこにあるのは、飲み込まれそうな果てない漆黒。
「っ…」
何を考える余裕も無く、闇の中へと踏み込んだ。
すれ違う川の水は、微かな光を反射しながら流れていく。
纏わり付くような向かい風に抗いながら前へ進んだ。
「…平助」
少しずつ感情が溢れてくる。
焦りと、恐怖と、不安。
きっと無事だから大丈夫だって思いたいのに、思えない。
傍にいたのに守れなかった自分が悔しくて、憎くて。
目の前で斬られることが、こんなに辛いなんて知らなかった。
いつからだろう、こんなにも惹かれていたのは。
必死に言葉を紡ぐ平助を見て、どうして名前を呼ぶことしかできなかったのだろう。
云えば良かった。
大好きだから、絶対に生きていて、と。
約束すれば、もう少し気は楽だったかもしれないのに。
「っ…あぁっ…」
思えば思うほど涙が止まらない。
平助は今頃、屯所で手当てされているだろうか。
油小路通りから西本願寺はすぐ近くだから、運ぶのに時間はかからない。
だけどもし、御陵衛士は裏切り者だからと見殺しにされていたら。
原田たちはきっとそんなことはしないだろう。
でも他の隊士たちは分からない。
実際、平助に斬りかかった新選組隊士がいるのだから…。
「平助…っ」
このまま北上した先に、何があるというのだろう。
原田や永倉に逃がされた命。
平助が居ないかもしれない未来。
「……!!」
そのとき、川沿いを走り続けていた夜尋の視界に、ぼんやりと人影が映った。
が、視界が暗くてよく見えない。
近づくに連れて少しずつ見えたのは、細い光の線。
それは、波のように繰り返し夜風に揺れている。
「……」
遠くなる意識の中で、それが光を反射する髪だと気付いた。
同時に、夜尋の頭にひとりの人物が浮かぶ。
長い黒髪の、あの人。
「…か…つら、さ……」
手を伸ばそうとした夜尋の視界が、ぼやけて黒に塗りつぶされていった───。





──京の街並みを埋め尽くすような薄紅色。
世界を覆ってしまいそうなくらいの桜吹雪の中。
目の前に、愛しい背中がある。
浅葱色の空を背負って、颯爽と歩いてゆく少年。
『平助っ!』
明るい栗色の髪を靡(なび)かせて、彼は振り向いた。
頬を緩め、太陽のように眩しく笑う。
その笑顔と、舞い散る桜に手を伸ばすけれど、花弁は指の間をすり抜けてしまう。
夜尋には何となく、これが夢だと分かっていた。
ずっと前にも、夜尋は桜の中に大切な人を見たから。
あの人を見たときと同じ、穏やかな春の夢──。
「──……」
ゆっくりと、まぶたを起こす。
見慣れない部屋、知らない匂い。
緩やかな静寂に包まれて、夜尋は目を覚ました。
「ん……」
光の差し込むほうへ目を向ける。
そこには、窓枠に座って外の景色を眺めている人影があった。
彼の背景に広がる空を見て、ぼんやりとここは二階だなぁなどと感じる。
細めた瞳で外の人々を眺めるその姿が懐かしい。
「桂さん…」
無意識に、夜尋は彼の名前を呼んでいた。
「…おはよう、夜尋」
桂はゆっくり振り返り、優しい声と共に微笑む。
「なんで…あたし……」
少しずつ意識を手繰り寄せた。
「──」
刹那、目の前が暗くなる。
目を閉じたんじゃない、これは宵闇の漆黒。
記憶の情景が、頭を埋め尽くしたのだ。
「─平助…平助は!?」
夜尋は勢い良く身を起こした。
ここはどこだろうとか、何故桂がいるのだろうとか、気になることはたくさんあった。
だけど、一番に浮かんだのは平助の姿。
「桂さんっ!平助は!!」
「夜尋…」
今すぐ会いたい、顔を見たい。
無事であることを確かめて、この止まない不安を消し去りたい。
「……私には分からない」
すがりつく夜尋に、桂は首を振る。
「………」
「…夜尋」
夜尋を落ち着かせるように、彼は優しく髪を撫でた。
「…伊東さんに、おおまかな事柄を聞いたよ」
「え…」
思わぬ名前が出てきて、夜尋は困惑する。
「知り合いだったんですか…?」
伊東が土佐の藩士と会っているという噂は聞いたことがあった。
だけど、長州藩士である桂と知り合っているとは思っていなかった。
「あぁ…知り合ったのは数ヶ月前だけれど」
「じゃあ、御陵衛士になってから…」
自分たちが、新選組を裏切ってから。
「昨日の朝、伊東さんから文が届いた」
内容は、"十八日の晩、五条大橋(ごじょうおおはし)へ来て欲しい"といった簡潔なもの。
日付が当日であることから、切羽詰った様子を感じた。
桂はその日の晩、文に書かれたとおり五条大橋へ向かう。
真下の鴨川を流れる水を見送りつつ、待つこと約一刻。
不規則な足音で駆けて来る、夜尋を見つけた。
きっと伊東は、全ての結末を予想していたのだろう。
「…長い間、一人にしてすまない」
「いいえ、桂さん…」
久しぶりに感じる、兄のような桂の体温。
夜尋は彼の腕の中で首を振った。
「ひとりじゃなかったです」
大切な存在を、見つけられたから。
出逢いをくれた全ての運命に、奇跡を感じるくらい。
「新選組へ行って…」
最初は、敵だと思って、思おうとして。
楽しい奴らだと感じる反面、警戒心を解けなかった。
…だけど、あいつらはあいつらで誠の志を掲げている。
信じ、貫こうとする様は、さながら疾風の如く。
一瞬の歴史を、輝きながら駆けて行く武士。
その姿を、いつの間にか必死で追いかけていた。
「皆に、出会えて…本当に良かったって思うんです」
こんなことを、桂に話してしまって良かったのか。
それでも、溢れる涙と感情は抑えられなかった。
「…そうか」
桂はただ頷いてくれる。
まだもう少し、動乱の時代は終わりを迎えそうにない。
だけど、もう行き場をなくした夜尋を桂は隣に置いてくれた。
これからの夜尋の目的は、見届けること。
ぶつかり合うそれぞれの思想と、荒く流れる時代。
その中を抗い続ける、彼らを───。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ