風絶幻夢 上

□第七幕
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「あー、局中法度な…」
「あれは、土方さんが考えたんだぜ」
朝食を終え、皆は道場で稽古をしていた。
その隅で、新入り隊士である夜尋は見学する。
隣には、休憩中の原田と永倉の姿。
道場の熱気は半端なく、風を通していても暑苦しい。
六月という湿っぽい季節のせいか、じめじめとうっとうしい汗が額ににじむ。
「土方さんって、何なのあの人…」
午前中のうちから疲れた顔の夜尋は、うんざり呟いた。
「何って、新選組の鬼副長だろ」
原田が稽古に目を向けながら言う。
「局長が頭(かしら)だけど…実質、一番権力を持ってるのは土方さんだな」
それに乗せるように、永倉も話し出した。
隊士からも相当恐れられている副長。
いつの間にか『鬼副長』という二つ名がついていたそうだ。
「…ぴったりじゃん」
夜尋は壁にもたれかかったまま、小さく膝を抱えた。
「ま、そのうち慣れるさ」
原田はぽんぽんと夜尋の肩をたたくと、また稽古に戻っていく。
「見学しててもつまんねーだろ。おまえもやるか?」
永倉が夜尋に手を差し伸べたが、
「いや…気が乗らないからいい」
夜尋は目を逸らすと、道場の外へ出て行った。
やっぱり、男だらけの新選組は女の夜尋にはきつい。
夜尋が女であることを知っているのは近藤、土方、斎藤、茉莉の四人だけだ。
女扱いなんて当然してもらえないし、男の常識の中で生きることになる。
そういえば、茉莉も女だが、かなりここに馴染んでいた気がする。
やはり、必要なのは慣れなのだろうか。
「……」
道場から出ただけで、だいぶ涼しくなった。
太陽はしつこく世界を照らし続けている。
少し気の早い蝉が、夏の声を懸命に叫んでいた。
「…そんなに鳴いてたら、寿命縮むって」
夜尋は軽く悪態をついて、鳴き声の聞こえない場所へと足を運ぶ。
まだ少ない蝉の声は、少し離れるとすぐに聞こえなくなった。
その代わりに聞こえてきたのは、さわさわと風が建物を揺らす音。
心地よい、静かな奏。
「…?」
その時、揺れる風と共に、黒い布が視界の端で揺らいだ。
視線をあげると、ひとりの少年が目に入った。
その手の中で、夜尋の視界に入った黒い布がはためいている。
…誰だろう。
見たことのない人だ。
頭の上の方で結った長い髪が目を引く。
まだここに来たばかり、知らない人がいてもそうおかしくない。
ただ気になったのは、初めて会った気がしないこと。
この面影を、どこかで見たことがある気がする…。
夜尋が歩み寄っても、彼は全く気づかない。
どこか遠い瞳で、空を仰いでいる。
太陽を背に受けて、彼の茶色い髪が薄く透き通っていた。
「…あ」
思い出した。
夜尋は思わず声を漏らす。
「?」
その声に反応して、少年が振り向いた。
その額には、仰々(ぎょうぎょう)しい包帯が巻き付けてある。
彼の童顔がそう感じさせるだけだろうか。
白い包帯は、小柄な彼には重たそうに見えた。
風が凪いで、二人の間を流れる。
「えっ…と」
少年が気まずそうに瞬きをした。
「あっ…ごめん」
夜尋も視線を左右に泳がせる。
「その…布…」
「え…?」
ぎこちない会話が飛び交い、少年が夜尋の目線の先にあるものに気づいた。
「これ?」
少年は握りしめていた黒い布を掲げる。
「う…うん。なんか気になって」
本当のことを言えず、夜尋は出かかった言葉を飲み込んだ。
「これは、俺の命を救ってくれたんだ」
懐かしむように、少年は優しい眼で語り始める。
「池田屋事件の時さ…俺、怪我して死にかけてた」
彼の言葉でよみがえる、池田屋の夜長。
「覚えてねえんだけど、気づいたら畳の上で、誰かが手当してくれてたんだ」
そう言いながら、少年は布を強く握りしめた。
「その後またすぐに気を失って、さっき起きたとこなんだけど…」
夜尋は黙って続きを待った。
言いたいことがあるのに、言えなくてもどかしい。
少年は一息つくと、
「これがなかったら、俺は死んでたかもしれない」
どこまでも穏やかに微笑みかけた。
夜尋ではない、どこか虚空に。
「そう思ったら、感謝の気持ちでいっぱいになるんだ」
それは、手当してくれた人へ向けた言葉。
それは自分だと、言いたい気持ちを夜尋は必死に押さえた。
ただ生きていてくれただけで、それでいい。
感謝してくれて、それだけでこんなに嬉しいんだから。
これ以上望むことはない。
こっちを向いてほしいなんて、思っちゃだめだ。
「…誰なんだろうな」
「―っ!!」
少年の最後の呟きが、夜尋の中の何かを強く揺さぶった。
胸の中の何かに耐えられなくなった夜尋は、きびすを返す。
そして、逃げるようにその場から立ち去った。
「あっ…おい!」
引き留める間もなく、夜尋の姿は消えていく。
「はぁっ…」
夜尋は物陰に飛び込んで、その場にうずくまった。
なんでこんな気持ちになるのか分からない。
あの少年は、池田屋で夜尋が助けた少年。
生きていてくれて、それだけで嬉しかったはず。
なのに、自分はあれ以上に何を求めてしまっていたのだろう。
もどかしくて、届く場所にあるのに手を伸ばせない。
というかそれ以前に、敵を助けて生きてて嬉しい…?
なんでそんな風に思ってしまうんだろう。
倒すべき敵を助ける、それは裏切り?
「あ゛ぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜」
夜尋は頭を抱えてひたすら悩むしかなかった。

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