今は昔、陸奥の国に
□刹那の虚弱
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長篠の戦いと名付けられた大戦から約一月。
季節は水無月の半ば。
奥州も梅雨入りを果たし、雨の日が多くなってきた。
織田一派は鉄砲隊の壊滅と、前田・徳川を始めとする同盟国の裏切りが相次ぎ、しばらくは凍結状態とならざるを得ない状況となっている。
嵐の前の静けさ…後の激戦を暗示するかのように、一時の平穏が訪れていた。
「紫蘭」
無用心にも開けっ放しの襖…その部屋の主は、相も変わらず一心不乱に何かを書きなぐっていた。
政宗は慣れた様子で声をかける。しかし、全く聞こえていないようだ。
それにため息をつき、部屋に足を踏み込む。
政宗には理解出来ない何かのガラクタがゴチャゴチャしているが、足の踏み場がないなんてことはないし、掃除の跡も見受けられる。
奥の机の上で、時々頭を捻ったり、唸ったり、かと思えば物凄い速さで文字を書いたり。
一向に自分に気づかない彼女に、少しだけムカムカする。
違う、彼女の視界に自分が写っていないのが気に入らないだけだ。
ピン! と閃く。
ここは一つ、驚かせてやろう。
(大した意味はないだろうが)気配を断ち、抜き足差し足忍び足でゆっくりと近づく。
そしてポン、と肩に手を置いた。
その華奢な肩が飛び上がった。バッと振り返って政宗を見、ようやく力を抜いたようだ。
金無垢が少しだけ潤んでいるように見え、そしてそこに自分の楽しげな笑みが写っているのを認め、政宗はたちまち上機嫌になった。
「政宗、驚かせないで。この魔法が誤作動しちゃったらどうするの!」
「Wholly unexpected(心外だ)オレは声かけたぜ? 気づかないお前が悪い」
レティーツィアはこの会話の間に、片付けるフリをして周辺のものを政宗の視界から隠した。
その行動の意味に気づき、政宗は少しだけ眉を寄せる。
努めてレティーツィアに悟られないように。
「えっと…私に何か用?」
「ハァ……もうすぐ未の刻になるぜ。出掛けるんじゃなかったか?」
「え!? もうそんな時間!?」
政宗がこの部屋を訪れた当初の目的を話すと、レティーツィアはやはり時間を忘れていたようで慌てて支度を始めた。
「紫蘭、黒脛巾から報告があった。近くに見慣れない一軍があったそうだ。大したことねぇ数だが…気を抜くなよ?」
「分かってる。じゃあ行ってくるわ。申の刻には戻るから」
「Okay, take care」
簡単に身だしなみを整え、墨で汚れた手を清めたレティーツィアは、そう言って部屋から出ていった。
政宗は一瞬だけ天井裏に目をやったが、特に何を言うわけでもなく、視線を先程までレティーツィアがいた机に移した。
周りに人がいないのを確認してから、物を動かさないようにそれらを見る。
「…………………」
見たこともない文字。
見たこともない言語。
これは彼女の世界の言葉だと知っている。
この世界にこの言語を解する者はいない。つまり、彼女はこの中身を誰にも知られたくない訳だ。
───レティーツィアを一人の女として愛するのは、止めてくれないか
「………」
政宗は、無人の部屋でしばらくそれをジッと見ていた。
その隻眼に見え隠れする感情を、悟るものは誰一人として存在しなかった。
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